「しらはぎ会だより」で特集した、北高女子の学校生活意識を探るアンケート調査の総集編です。 今回は、大先輩と在校生とで調査内容が異なる残りのアンケート集計結果と、「コメント」のボタンで、項目ごとに寄せられたコメントのすべてを掲載しました。 ここでは、5回生から16回生・99名の「大先輩」のアンケート調査結果を紹介します。

教育制度が刷新され、小学校から大学まで、男女共学が実現したのは昭和22年、日本国憲法公布の翌年です。そして、「県立浜松北高」に改称され、女子生徒が初入学したのが昭和24年。今春は60回生が卒業していきました。

伝統的男子校へ入学した初期の女子生徒は、さぞかし男勝りの気丈な女の子だったのだろう…と感じますが、現在の高校生同様に、自分の学力や校風を基準に、新制度を理解する親の勧めに後押しされて、共学校になった北高を自然体で選んだ普通の女の子でした。 入学後、男子との軋轢があったのでは…という危惧も、紳士的な男子や女子の扱いにとまどう先生方に甘えることなく、男子と対等に、何事も平等に、高校生活を楽しまれたことがわかりました。 それでも、女子の受け入れ体制が不備な当初の学校生活は大変だったろう…と思いますが、世の中全体が戦後の混乱と不便さを甘受していた時代、今では考えられない劣悪な環境の中でも、不便さをのりこえ、充実した学校生活を送られたようです。 アンケート調査から、とても元気で明るく、頼もしい大先輩方の北高生活が鮮明になりました。
文責・山中圭子
写真提供・内山安代・中山宏枝・遠州鉄道株式会社

多すぎる男子よりも少なすぎる女子が問題女子の友に苦労し男子とは対等に向き合う

男子が多くて何事も不便だったのでは…という予想をしての設問でしたが、約8割の方の回答が「別に困ったことはない」でした。「言葉遣いなどに女らしさを求められた」「学食でなかなか食べられなかった」はゼロでした。「『女らしさ』を押さえる努力をした」は2人だけ。 大先輩たちの方が性差を意識することなく、自然体で男子と接していたことがわかりました。

たった5%ですが、2番目に多かったのが「男子に無視され疎外感があった」です。 コメントでは「男女の交流や会話がほとんどなかった」「必要以外は、男子に声をかける気はなかった」と女子が男子を無視する傾向にあった様子や、「女子が少ないので男子のほうからも話しかけにくいのではと思った」という見方もありました。

3番目が4%の「男くさい教室に居場所がなかった」でした。コメントでは「男臭い教室で授業の時、冬でも平気で窓を開けました」「男臭い教室にはじきに慣れてしまった」という平気派が多いなか、「居心地はよくありませんでした」「女子トイレが唯一のたまり場でした」などの内気派もいました。

「その他」として目立ったのが、「気がねなく付き合える女性の学友が少なくて淋しかった」「女子校に比べ、友人が少ないことが少々問題」「同性の友達の範囲が少ない」「女子が少なくて友人を得るのに限界があった」など女子が少なすぎて同性の友人を作りにくかったというコメントで、多くの学年にありました。男子が多いことよりも、関わりをもたざるを得ない女子が少ないことで困ったことの方が多かったのかもしれません。

記憶に強く残っているのは「家庭科がなかった」 女性教師の記憶や制服への思い出は十人十色

アンケート調査をお願いした5回生から16回生までの12年間は、女子生徒の学習環境は、ほぼ同じでした。 当然、在学時の該当項目は、すべて同じ結果になるはずですが、遠い記憶なので、各人の体験や印象によって、異なる回答になりました。

最も多かったものは「家庭科がなかった」です。8割以上(99人中)の方が記憶されていました。まだ「女子教育とは良妻賢母の育成」だと考えられていた当時、家庭科の授業がないことに不安がなかったのか…と感じますが、家庭科についてのコメントは一つもありませんでした。

反対に、すべての学年でコメントがあり、その内容にばらつきがあったのが女性教師についてでした。 「女性教師がいなかった」と回答した方が約4割いましたが、実際には音楽と保健室のが女性教師で、体育も他校とのかけ持ちで女性教師が教えていました。「保健の先生が『今井先生』、音楽の先生が『本間先生』、女性教師でした」と、教師の氏名まで記憶している方もいました。

昭和25年に「標準服」が決まりましたが、約6割の方が「制服がなかった」と回答されました。標準服は、最初の女子が2年生の時に決められています。 その標準服も「ジャンバースカート」「白いブラウスとジャンバースカートとボレロ」「ブラウスにベスト、スカート」「衿なしブレザー、白いブラウス、箱ひだスカート」と記憶はさまざま。「『標準服』といった印刷物を渡されていましたが、皆、それぞれ自分のスタイルの服を用意していました。夏服は自由でした」が実態だったようです。

女子生徒の思い出の教室は音楽室と図書室 「屋上でフォークダンス」も忘れがたい記憶

昭和28年(8回生入学)に3階建ての新校舎(北校舎)が落成し、31年(11回生入学)には南校舎が落成します。翌年には体育館が新築され、その後の数年間でテニスコートやバレーコートが新築されました。 7回生までと8回生以降では教室の思い出が違っているはずですが、強く記憶に残っている教室、記憶が薄い教室は同じ傾向でした

大先輩の記憶に一番強く残っていた教室が「音楽室」で、ほぼ同じ数だったのが「図書室」です。ともに8割以上(99人中)です。「新校舎にできた図書室のすばらしさを記憶している」というコメントがありました

次も横並びで「体育館」と「講堂」、「美術室」「生物教室」」「化学教室」、そして「保健室」でした。約7割の方が記憶されていました。人気がなかったのは「書道教室」「地学教室」「物理教室」で、覚えていたのは約3割の方でした。 一方、当時は存在しなかった「LL教室」「視聴覚教室」「家庭科教室」、さらに「学食」や「合宿所」を「記憶している」方も数名いました。 「売店」は「売店といってもパンのみ」でも約4割の方の記憶に残り、「生徒会室」は5割の方が覚えていました。

「その他」のコメント中には、「屋上。毎日、お昼休みにフォークダンスをしていた」「屋上―昼休みはフォークダンスに興じていました」「屋上。かくれてお弁当を食べました」と、屋上に特別の思い出がある方が9回生から12回生に数名いました。 「各校舎の入り口の石段がすりへって真ん中が大きくくぼみ、そこに歴史を感じた」「校舎(教室や廊下)のガラス一枚一枚に校名(浜一中)が大きく彫って書いてあった。盗難防止のためと聞いていた」と、ともに一中時代からあった古い木造校舎の話ですが、当時の体験と合わせて、取り壊された校舎を懐かしく記憶している方もいました。 また、「体育科、職員室―時々、おやつをもらったりしていました」「校舎から離れた体育教科室があり、休み時間に遊びに行き、楽しい思い出です」というコメントが複数あり、当時の体育教科室に特別な思い出がある方がいるようです。

通学や移動の手段は「歩くこと」が当たり前 通学時間はバスや電車利用でも30分以上

北高への通学は、近ければ徒歩、遠くなれば自転車、さらに遠い人は電車(奥山線)や汽車(東海道線)を利用し、バス(当時は遠鉄バスと市営バス)を利用して通学した人もいます。 通学手段や交通機関だけを見れば現在とあまり変わりませんが、実態は全く違います。 当時は、1時間に1本しかない電車やバスを利用するために最寄り駅まで歩く、乗り遅れて浜松駅前から学校まで歩く、満員電車や満員バスを嫌って学校から始発の駅まで歩く、時には遠い自宅まで歩いて帰るなど、移動は「歩くこと」が基本で、「通学時間30分以上」がほとんどでした。

この項目は、雨天と晴天等でも通学方法や所要時間が違ったようで、回答者が少なく、統計的なまとめはできませ
んでした。

通学の楽しみは道中の友人とのおしゃべり 記憶に残る思い出は満員の電車やバスの事

多くの方が、Q6で回答しきれなかった通学時の思い出をたくさん書いてくださいました。

楽しかった通学の思い出として多かったものは、「何人かの友人と楽しいおしゃべりをしながら、時には友人の家に寄って楽しい時を過ごした」「帰りはいつも同じ友人と一緒で、親、きょうだいのこと、授業のことなど話に夢中でした」「北高から浜松駅まで女子の友達とおしゃべりして帰ったのが楽しかったです」というコメントや「学校からの帰り道、上級生・同級生と演劇・音楽会など語りあったことが懐かしく思い出される」というコメントもありました。 一方では「一人で通学していたので、賑やかに通学する女子高の方が羨ましかったです」と、女子が少なかったために寂しい思いをされた方もいたようです。

通学手段の思い出として多かったものが、北高のすぐ前を走っていた遠州鉄道奥山線。軽便鉄道とも呼ばれ、今の「家康の散歩道」が奥山線跡地です。 「遠鉄奥山線を利用したこと。当時の道路は車の通行は少なく、時間帯によっては荷車や牛にひかせる車などが多く、のどかなものでした」「現在は廃線になっている奥山線で通学しました。同じ電車では北高、浜商、盲学校の生徒さんと一緒になりました」という思い出の陰には「1時間に1本の列車ですので、朝のラッシュ時は学生でいっぱい。遅刻しそうになって、入り口にたむろする男子学生の間をかき分けて乗り込むのは、大変な勇気がいりました。『女のくせに…』が当時の一般常識でしたから」という通勤・通学ラッシュ時の戦いがあったようです。 また「朝、奥山線に飛び乗ると、学生がほとんどで、あまり私語もなく、みんな教科書や参考書とにらめっこ」と、当時の真面目な学生像がうかがわれます。

遠方の方には、「東海道線が蒸気機関車で、発車時速度が遅いので、乗り遅れそうになっても、ホームを走って追いついた」という元気な思い出がありました。 「不便な田舎でしたから朝6時半に家を出、8時30分始業に間に合うという毎日。往復4時間、でも3年間皆勤賞を頂きました」という努力家もいました。

バス通学には「木炭バスだった。バスの後ろから煙りが出ていた。道路がデコボコしていて立っていられない程ゆれて笑い出してしまった。止まるたびに砂けむりが窓から入って息が吸えなかったので苦しかった(10回生)」という今では想像もできない体験や「原則として徒歩通学でしたが、遅くなった時、連尺からバスに乗ろうとしましたが、いつも満員で乗せてもらえず、かえって遅くなり、ホームルームに遅刻したことが時々ありました」という苦い思い出もありました。 自転車通学の方にも思い出が多く「砂利道ですべったり、輪をとられたりと自転車が下手だったので困ったことを思い出します」という方や「まだ舗装されていない田舎道を50分あまり自転車で通いました。今思えば大変なことなのに、当時は結構楽しく、夏は真っ黒に日焼けしていました。お陰様で、今でも健脚を保っております」という方も。「入野あたりから自転車でフーフー言いながらやってくる一団と毎朝出会った。田舎からご苦労様と思っていたら、その中の一人と結婚する羽目になり、びっくり」という方までいました。

通学の思い出の中には、ゲタをはいて通ってしかられた事や、交通事故に合いそうになってトラックをよけたら遅刻し「無遅刻記録」が途絶えたり、学習塾通いのため学習塾用の本も入れた重いカバンを持ち、よく足をくじいたという体験まで、一人ひとりがさまざまな思い出をおもちです。ぜひ「コメント」をお読みください。今と同じ町名なのに、その通学情況の違いに驚かされます。

「女子だけの特別な授業」は学年合同体育だけ 先輩と後輩が同じ授業で交流した楽しい記憶 Q4の「北高在学時の該当項目」と重なるような設問ですが、アンケート作りに関わった19回生から46回生の間で「こんな女子だけの授業があった」から「私たちの時はなかった」までいて、最初の頃はどうだったのか確認したいという意見が強くなり設けたものです。

結果にはほとんどばらつきがなく、回答者の9割以上の方が「女子だけの特別な授業」は「他学年との合同体育(時には保健体育)」と答えています。 アンケートに協力していただいた16回生の頃までは家庭科がなく、美術や音楽などの選択授業も男子と同じように受けていました。

体育は、「同学年女子のみの授業で、ソフトボール、サッカー、バスケットボール、テニス、バドミントン等とても楽しかったです」という思い出や、「女子だけの体育の授業があった。男子が窓から大勢見ていてイヤだった」という方もいました。 「体育は3学年合同でした。その為、上の学年、下の学年の人の名前も覚え、親しくなったように思います」「先輩と親しくなれたのがとても良かった。以降も尊敬している」という楽しい思い出の方が多いようでした。

学校祭・体育祭・遠足・修学旅行が強い思い出 「臨海学校」と「合唱コンクール」も楽しい体験

5回生から16回生まで、共通して「思い出深い学校行事」としてあげられていたのが「学校祭」と「体育祭」、そして「遠足」と「修学旅行」でした。これらは8割以上(99人中)の方が「楽しかったもの」として○をつけています。 「学校祭でクラブとして活動し、大変だったが後で慰労会をしたことが楽しかった」や「文化祭。夜遅くまで学校に残って作品つくりをして親に叱られました」や「体育祭は仮装行列に参加したことが思い出深い」など、今の北高生と同じように学校イベントに情熱を燃やす姿がうかがわれます。「中学生の時、北高の文化祭を見学にきて、あまり楽しくてびっくりした事がありました」というコメントもありました。

意外に多かったのが「臨海学校」で回答者の約半数(99人中)が○をつけ、「クラス対抗合唱コンクール」もほぼ半数の方が記憶していました。 「旧制中学の先輩が来てくださった臨海学校だけは伝統ある高校へ入ってよかったー!と感激でした」や「合唱コンクールに向けて『モルダウ』を昼休みや放課後にクラスが心を一つにして練習したこと」などの思い出を語る多くのコメントがありました。

また「志賀高原にスキーに行ったこと。生まれて初めて見る雪景色に感動しました」や「屋上でいつも行われていたフォークダンス。北高はもしかして…フォークダンスをするために通っていたのではないだろうか?」や「肝ためし大会というのが、夏の林間学校であって面白かった」など、様々な学校行事の体験が記されていました。

クラブ活動は男子生徒と女子生徒がいっしょ 男女の協力や先輩・後輩の絆を深める活動

ごく少数派の女子が参加できるクラブ活動が伝統的な男子校の中にあったのだろうか…という後輩の素朴な疑問から設けた項目でした。 結果は、後輩たちの危惧に反して、5回生から「クラブ活動はすべて男女共同で、参加が義務化されていた」というものでした。

そのために、99人の回答者の中の81人が「男女参加のクラブ活動があり参加した」と答えていますが、約1割の方は「クラブ活動には参加しなかった」と答えています。 また「女子だけのクラブ活動」はありませんでした。

参加した方は、「私にとって大変意義ある活動だった。先輩の指導が良かった」や「演劇部は卒業した先輩が協力的で、公演前には色々手伝ってくれました。時々、先輩から差し入れがあり、皆でお菓子を食べながら雑談をした事がとても楽しく、印象に残っております」などと先輩との絆をなつかしく思い出されていました。 「テニス部 一中、北高始まってから最初の女子の部員4名です」や「山岳部 開学以来のことと騒がれました。その年入学した女子数名が入部しました」と「北高初の女子部員」を誇りに思っている方もいました。

少数派女子も頼まれ、クラスで選ばれて参加 積極的な関わりよりもお手伝い感覚が強い

伝統的男子校へ入学した女子にも生徒会活動の門戸が開かれてれていたのか…という疑問からの設問でした。 戦後まもなくの時期なので「女は男についてこい!」的な男尊女卑の校風が北高にもあったのでは、という疑惑があったのです。

結果は回答者88名中の約28%が「生徒会へ参加していた」という驚くべき数字でした。 当時は、全校生徒の1割にも満たない女子なのに、その4人にひとり以上が生徒会活動へなんらかの参加をしたということになります。

「女子2名が書記となりその1名だった」のように実際に積極的に生徒会活動を行った記憶がある方は少なく、「友人に頼まれ執行委員会の手伝いをほんの少しやった」や「多少学園祭の前とか声がかかり、お手伝い的な参加はしました」また「級で評議員に選ばれ参加したこともあった」など、数少ない女子への配慮なのか、男性が苦手な分野での女性的能力への期待なのか、男子生徒から頼まれてしぶしぶながら生徒会活動を手伝うケースが多かったようです。

実際には「生徒会執行部委員のメンバーに頼まれ形式的に名を連ねたことはありますが、積極的に気持ちが動かず、何もしませんでした」や「名前だけ入っていましたが、活動内容に覚えはありません」など、まるで「名義貸し」のような実態もあったようです。 女子の生徒会活動への関わりも、男子からの強制や学校から命じられたの義務のような感覚ではなく、本人の自由意志で決めていたことがわかりました。 いろいろな意味で、北高には、女子入学当初から男尊女卑の校風がなかった、といえるようです。

約6割が直帰派、クラブ活動派は約4割 映画の鑑賞や市立図書館での読書が楽しみ

このアンケート調査を行った年の同窓会総会(2007年)のテーマが「同じ窓、同じ風」でした。総会の中の「北高グルメ」という催しでは、代々の北高生が学校帰りに立ち寄ったお好み焼き屋の「ぬのはし」など、学校周辺のなつかしい店が模擬店を出していました。 「ぬのはし」は昭和41年創業なので、それ以前の北高女子は、放課後どこで何をしていたのだろうか? という関心から設けた項目でした。

結果は、99人の回答者中の57人が「まっすぐ家へ帰った」という直帰派でした。「クラブ活動をしていた」は38人。 6回生からは「学習塾へ通った」方がいて、16回生まで合計19人、また学習塾以外の「習い事をしていた」方は7人でした。

「友だちと学校近くの店などへ寄って飲食」はたった2人でしたが、コメントの方には、飲食以外にもさまざまな思い出が書かれていました。

一番多かったのが「映画をよく観た」です。次が「市の図書館で勉強をして帰った」「図書室でよく本を読んだ」でした。当時の家庭にはテレビも電話もありませんでした。 アンケート結果からは、放課後はまっすぐに家へ帰り、クラブ活動がある日にはクラブ活動へ参加し、学習塾がある日には塾へ通い、時には映画鑑賞や市立図書館で読書を楽しむ…という模範的な女子学生の姿がイメージされますが、「部活の後、時々市立高校前の『みかど』で焼きそばやお好み焼きを食べたのが懐かしい」や「市の図書館の近くのハンバーガー屋(で飲食)」など、学校帰りに飲食店へ立ち寄ることもあったようです。

「家が厳しく、門限が7時だった」というコメントがありましたが、しつけが厳しく、交通事情が悪く、夜道が暗かった当時は、若い娘は早く帰宅せざるをえない社会環境だったといえるのかもしれません。

男子とは恋愛感情ぬきの友人関係が一般的 心の中には『片想い』や『憧れ』の『君』もいた

男子校の中の少数の女子は、とても目立つ存在であったと思います。女子の方も、同窓生や先輩という多数の男子の中に、素敵だと思う人がいてもおかしくありません。 どの学年にも同窓生同士や先輩と後輩カップルで結婚する人たちがいます。 結婚や男女交際に親が厳しかった当時、大先輩たちは恋愛感情とどう向き合ったのか教えていただきました。

結果は、予想通りに「男女交際はしなかった」がトップでしたが回答者99人中の65人でした。 それでも「同窓生が恋人」が7人、「先輩が恋人」が5人、さらに「後輩が恋人」も1人いました。さすがに「大学生や社会人が恋人」はゼロでしたが、グループ交際派は、他校生を交えた交際も含めると合計8人いました。 「当時も交際は自由であった」「自分は他校生と。北高生同士の交際をする友人がいたが、とてもオープンだった」という積極派や「『恋人』というイメージとは少しちがう交際だと思う」というコメントがありました。

一方、「周囲の目がうるさくて、男女並んで歩くのも困難であった」という時代、「在学中は友人として普通に話をする事、また片想いはあっても、特定の人と交際する事は一切なかった」「男女の意識はせず、同級生、普通の友人としてのお付き合いだった」が一般的だったようです。 また、男子とのつきあいといっても「北高先輩、同級生のボーイフレンド。恋人ではありません」や「親しくお付き合いしてくれた人はいましたが、友人としての感じだった」のがふつうの関わり方のようです。

それでも「上級生にひそかに憧れていた」や「交際とは言えないのですが『あこがれの君』がいて、廊下ですれ違ったり、一緒の授業のときはとても嬉しかった」など、乙女らしい恋心を懐かしむコメントもありました。

4年制大学受験に女子差別はなく進学可能 両親や世間の偏見で女子の大学受験は少数

「同窓会会員名簿」の最終学歴欄を見ると、大先輩たちの最終学歴は女子大や短大の方が多く、4年制大学は地元の静大が目立ちます。その当時、女子の4年制大学進学に何らかの制約があったのだろうか…という疑問から設問しました。

「女子の進学を認める大学が限定」はゼロで「大学進学に関する男女差別はなかった」が圧倒的多数でした。 「女子の進学を認めない大学は私達の時代(昭和28年卒)にはまずありませんでした。男子の進学を認めない女子大はあっても」という、現在と同じ情況だとわかりました。

それではなぜ、当時の女子は、4年制大学へ進学する者が少なかったのでしょうか。 「両親に『婚期が遅れるから4年制は駄目』と言われ、やむなく短大に」や「両親は何も言わなかったが、その他周りで『女子が4年も大学に行ってどうするの』とは言われた」というコメントがありました。 さらに「学力があればどこへも受験できるが、その後の生活は、やはり女性の場合、下宿生活ともなるとハンディがある」という社会事情や、「自分自身が意識的に女子大を選ぶようなところがあった」という女子の意識、「その当時は女子は短大ぐらい…という風潮があった」ことなどが心理的制約になっていた面もあるようです。

両親に理解があり、世間の風潮を吹き飛ばすファイトがあっても「看護の道には大学もなく、男子もいなかった」や「叔父の輸出業を手伝うため、ビジネススクール(東京)に通いました」のように、進学したくくても4年制大学側に受け皿がないという事情もありました。 「経済的に厳しい時代でした」という当時、「経済的な理由で国立(4年制)を選んだ。自宅から通学可能なことも」。という事情も一因で、地元の静大卒が多くなったのかもしれません。北高で男女共学の良さを体験した大先輩方でも、大学進学には大きな壁があったようです。

少ない人数だから自然にまとまり仲がよい同時に個性が強い人が多く干渉しすぎない仲

アンケート設計中に、女子にまとまりがあり仲がよかったと感じている学年と、友人以外の女子とはほとんど無干渉で過ごしたと感じている学年があることがわかりました。同期の女子が20人に満たないような当初、女子の仲はどうだったのか…? 最後の設問になりました。

結果は「仲がよくなったと思う」が過半数でトップでしたが「他校と同じくらいの仲だと思う」も約25%いました。「わからない」のコメントでは「敢えて『わからない』としました。一学年に16名とごく少数でしたが、3年間、一度も同じクラスにならず、同じ中学の出身でもなかった数名の人のことはあまりよく知らないまま卒業してしまったな、と今にして思います。いつも女子だけで行動していたのは確かですが」と当時を振り返る方がいました。

また、仲がよくなったかどうかとは別に「特に意識したことはありません。好ましいと思う人柄の人が多く良かったと思っています」や「個性的で自分をしっかり持っている人が多く、教えられることがたくさんありました」あるいは「個性の強い人がほとんどだが、お互いを尊重しあう空気があり、仲は良かった。数の多少ではなく、質の問題だと思う」など、北高女子の気質を好ましく感じていたという意見がありました。 そして「今でも本音で話合える友人に北高時代の女子が多い」や「50年余、ずっと続いている同級生のお付き合いは宝物です」という方がいました。

他方、個性派が多かった結果「他人の干渉はしないし、自分も干渉されたくないという思いが強かった」や「女性の中には個性的な人が多く、マイウェイ型の人が多かったのではと思う」という、まとまりよりも個人主義者的な印象が強く残っている方もいました。 学年ごとの違いではなく、個人の体験や記憶や思いによって「仲良し度意識」が異なる結果になりました。