高木美幸(25回)
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今年の1月14,15日に親類の葬儀のために、陸前高田市に生まれて初めて行ってきました。

東海道新幹線で2時間、東北新幹線で2時間半、乗り換えを入れて一関駅まで何とか新幹線で行けるようになり東北も近くなったと思ったら、一関駅から大船渡線を待つこと1時間。そこからが遠いのなんのって。3時間ゆっくり電車に揺られてやっと着いた陸前高田駅は雪もない静かな静かな小さな町でした。雪に覆われていたのは仙台から一関駅で、海岸線に近づくにつれて雪が消えていきました。

陸前高田駅プラットホーム
陸前高田駅

陸前高田駅は天浜線の無人駅ぐらいの大きさで二時間に1本ぐらいしか本数がなく、帰りには午後3時の一関行きの大船渡線に乗り遅れると東北新幹線を使っても浜松には帰りつかないそんな本数のまばらなところでした。駅前は本当に人が一人も歩いていない静かな駅前商店街でした。

駅前
駅前商店街

親切なタクシーで、陸前高田市唯一の高層ホテル(7階建て)に行きました。
一つも高い建物がなくぽつんと海岸まぢかにそのホテルは立っていました。

広々したアプローチは、きれいにタイルをはりかえている途中でした。
(今思うともったいない。あんなにきれいに直して。)
大きなドアーを入ると広いロビーがある美しいホテルでした

駅からこの海岸線のホテルまで車で10分もかからないほどで、その町の中心部は本当に海から近くこじんまりとした小さな町で、比較的小さな家が密集していて、私の抱いていた東北の田園地帯のイメージではありませんでした。

宿泊したホテル
ホテルから望む町並み

私が滞在したホテルの部屋は最上階で窓からながめてみると陸前高田の町が片手の中にすっぽり収まるほど小さく固まっていました。

高田の松原

すぐそばの海岸は美しい松原が続いていて、これが市民自慢の「高田の松原」かと思いました。
さほど寒くもなかったので早速海岸に、夕日の沈むのを眺めに行きました。

しかし、海岸に近づこうと思っても、びっくりするほどの分厚い、高さにある頑丈なコンクリートの防波堤に阻まれてなかなか海岸には出られません。やっと防波堤の切れ目を見つけました。そこは、美しい松原には不釣り合いに思えるほど頑丈な鉄の扉がついていて、なみなみならないここに住む人の津波に対する警戒心を垣間見ました。

海岸が散歩道

そして、その松原を抜けてやっと海が私の前に広がりました。
その穏やかなこと、なだらかな湾曲になっているその白い砂浜は浦島太郎に出会いそうなおとぎの世界のように美しかったです。どこが遠州灘と違うかと思ってみると、砂浜にごみが漂流していない、どこまでも穏やかな曲線に透き通った海水が穏やかに打ち寄せていました。

一人で夕暮れ時に海岸にたたずんでいても何も怖くない。その優しいお国柄でしょうか。
時おり散歩している人は見ず知らずの私に話しかけてきてくれます。
「今日はあたたかいですね。」「ほんとうにおだやかですね。」
これを東北特有のなまりで言ってくれると、本当に暖かい。

海岸を毎日散歩していると言っていたあの人は元気でしょうか?
親切だったタクシーの運転手さん、ご無事でしょうか?

夕景色1
夕景色2

町をぶらぶら歩いてみました。
浜松にはない標識にふと目をやりました。

「ここは津波警報が発令されたときは立入禁止区域です。」普通の住宅街にそんな看板を見たときにはここはチリ地震の時に怖い思いしているんだなあと漠然と思いました。 屋上に青い大きな看板のあるスーパーに入ってみました。

陸前高田のスーパー

やっとたくさんの人に出会いました。
町にはほとんど人影がなかったけれど、ここにいらしたんですね。なるほど、この中は暖かい。
小さな商店街はほとんど平屋か2階建てしかなく唯一のスーパーマーケットも店舗は2階まででした。地震後の写真でこの青い看板は残っていました。
しかし、2階の店舗まで中は無残に壊滅していました。 あそこで働いていたかわいい店員さんは無事でしょうか? きびしい自然環境でも、この土地を離れたくない被災者のお気持ちが垣間見れたそのような私の印象でした。
都会では考えられないほど年長者をそれはそれは大切にしています。
まちのみんなが顔見知りのようなそんな会話がスーパーの中でも聞こえてきました。

陸前高田の美しい海岸

あれからわずか2か月。
だれもがみんな心から悲しみ、なにかしたいと願っている。
私は絶対にあの時の感じた暖かさを忘れない。
テレビに出てくる人が黒っぽい服を着なくなった時も、夏が過ぎ、秋風が吹き、やがてきびしい冬がおとづれ、来年の浜松祭りが開催されても、再び桜が咲く季節になった時までに必ずや立ち上がる兆しが感じられることを信じて待ち続けたいと願います。