「古い記憶を頼りに…」         足立美佐(4回)

 

昭和20年〜21年

浜松大空襲の前後

昭和20年3月に吹田第一国民学校(小学校)5年を終えて、浜松に移ることになりました。本土空襲がひどくなったこの時期に移転した理由は、父に赤紙が来て応召したこと、吹田では空襲を受けた場合に頼る親戚が近隣にないので、近くにいてもらったほうが安心という(母方の)祖父母の意見を聞き、祖父母の住んでいた三組町の家に来ることになりました。
吹田を朝出発して大阪駅で東海道本線に乗り換えましたが、警戒警報が出ると列車は止まります。(敵機が本土上空に現れると、動体は目標物になり攻撃されますので)当時大阪〜浜松間は6時間でしたが、途中警戒警報が何回も発令され、そのたびに停車を繰り返し、浜松着は真夜中でした。終バスもなく、祖母と母 兄 弟2人と私は とぼとぼと三組町の家へ向かいました。
当時の引越し荷物は遠距離の場合、コモで包み、わら縄で縛り、木枠で覆って、貨物列車で運搬されていました。我が家の荷物は吹田駅の倉庫に入ったまま、到着したのは6月に入ってからで、一週間余りで、6月18日の大空襲に遭いました。(冬物と夏物を分けて祖父母の家に預けるつもりでしたが、間に合いませんでした。貧乏のどん底生活の始まりです。)

6月18日夜 浜松大空襲の日 警戒警報から空襲警報発令までに、余り時間がなかった気がします。焼夷弾を積んだB29が浜松上空に現れ、投下しました。裏庭に防空壕があり、そこに避難していたのですが、家に火の手が上がり、秋葉神社境内の防空壕に逃げることにしましたが、履物がないことに気付きました。兄と一緒に燃えている台所に入り、手当たり次第に履物を集めてきました。
壕にあった座布団を、防空頭巾の上からかぶり、爆風で軋んでいた裏木戸をこじ開け、焼夷弾の降る中を神社の壕に行き、やっと入ることができました。なが〜い時間が過ぎて、敵機が去り、警報解除のサイレンが鳴り、6月19日になりました。神社の壕にも2発の焼夷弾が突きささっていましたが、壕の上にかぶさっていた杉の枝に当たり不発でした。杉の木が無かったら、焼夷弾の油分が壕の中へ入り、多分生きていなかっただろうと、大人の人達が話していました。

家に行って見ると、何もありません。裏庭の壕は中まで焼けていました。
台所で、あせって集めた履物は対でないものもありましたが、それを履き、迎えに着てくれた祖父と祖父母の家(井伊谷村三岳)へ向かいました。

軽便に乗り、金指駅下車、駅前の急な坂道を歩き、オオボリ山を越えて、祖父母の家にたどり着きました。
みかんの貯蔵庫へ置いてもらうことになりましたが、冬になると、低い床の作業場は冷えて寒かった記憶があります。
祖母が疎開させていた叔父叔母達の古い衣服を貰い、なにからなにまで、もらい物の生活が始まりました。トイレもお風呂も母屋へ借りに行く毎日でした。私は井伊谷小学校へ転入しました。

祖父の編んでくれた藁草履を履いて、三岳から1時間をかけての通学です。
慣れない藁草履は鼻緒がすれて血がにじみ、1日で後部が壊れてきました。祖父が自分の藁草履は自分で作るようにと、教えてくれました。
下手な藁草履(編み方がゆるい)は、すぐに磨り減って壊れます。学校でも、配給のズックは人数分こなくて、私はいつも抽選に外れ、長靴も傘もなく、雨の日は欠席するのが当たり前になりました。7月に入ってから、学校からの帰途、機銃掃射に遭いましたが幸い怪我はありませんでした。

授業で、先生の「わかる人、手を上げて」に反応した私は、生意気な疎開者ということで、男子生徒から石を投げられ、1年上のお姉さんに守られて道のない山の中を逃げて帰宅したものでした。あとから判ったことですが、クラスに旧家のお嬢さんがいて、「彼女が手を上げる前に他の人が手を上げてはいけない」という暗黙の了解が成り立っていたのだそうです。私はそんなこと知りませんでしたし、教えてくれる人もいませんでした。それからは「判っていても絶対に手を上げない」ことに決めました。兄は(大阪府立)茨木中学から一中へ編入し、朝4時に起きて井伊谷駅から軽便に乗り通学していましたが、体力が続かず中途退学をしました。本当に可愛そうなことをしました。

食糧難の時代でした。祖父のみかん畑の樹と樹の間の土を借りてサツマイモを植えましたが、秋になって収穫に行ってみると、誰かが探り掘りをして、小さな芋だけが残っていました。疎開者に対する嫌がらせだったようで、本当にがっかりしたのを覚えています。
当時のお弁当は、サツマイモだけの時もあり、麦ご飯(米がほんの少し入っている)に、おかずは味噌だけでした。「おまえの名前(みさ)が悪いから、味噌しか食べられないんだ」とはっきり言われました。新聞紙に包んだお弁当を全部開かないで、新聞紙を立て隠して食べました。

 

昭和28年頃の開墾風景(現在の高丘あたりか?)。
中国からの引き揚げ者だった祖父母も、戦争で全てを失い三方原の開墾へ入植。当時は、雑木林もある手付かずの荒れ地が、着の身着のままの開墾者たちの人力で農地へと変えられていった。当時一歳。
(写真提供・山中圭子)

昭和21年2月

父が復員しましたので、いつまでも祖父母の家にいるわけにもいきません。
その頃、政府が持っていた三方原の爆撃場跡地を払い下げる話がありました。父に職がなく住む家もなく、まして食糧難でしたから、とにかく何でもいいから食料を作らなければということで、入植しました。

笹の生い茂った原っぱの開墾が始まり、私は三方原小学校6年へ編入しました。その頃の住所は97部隊が使っていた兵舎で、細い廊下の両側に板張りの部屋が並んでいて、戦災者や外地からの引揚者が1部屋ずつ借りていました。

台所はないので、出入り口のコンクリート部分に七輪を置いて食事の用意をしました。5〜6軒が集まるので、貰い火をすると、最初の人のマッチ一本で済んでしまいます。マッチは貴重品でした。お鍋一つで出来る「おぞうすい」を毎日食べていたように思います。

しばらく経ってから、(政府の援助だったのでしょうか)入植した土地に家が出来ました。小さい床の間と押入れのついた6畳和室に、3畳くらいの板の間、入り口は土間で3畳くらい。それでも、家族だけの生活ですから、兵舎にいるよりは ましでした。6畳の和室に2組の布団を敷き、7人が寝ました。どうして寝たと思います?
1組に3人が寝るのは、2人が寝て、足のほうから1人が真ん中へ入ります。もう1組には4人。逆さに寝ている人の足がとても邪魔になりました。

一ヵ月後には小学校卒業です。(旧制)女学校へ進む人達を羨ましく思いました。母や叔母達の卒業した市立へ、私も行きたかった。私は小学校高等科一年になりました。担任の先生から、経済的な理由で進学できない場合は、給費制度のある師範学校に行きなさいとアドバイスされ、本をお借りして、受験準備を始めました。が、翌年4月から新教育法実施により、新制中学二年になり、師範学校は大学に昇格しました。大学に進学するには新制高校三年を卒業しなければならなくなりました。

開墾当時の家。当時は屋根瓦が不足していて、杉皮で屋根をふいたそうです。母の実家も杉皮屋根。雨がふると杉皮のすきまから家中に雨漏りがして大変だったとか。電気はあったものの、水道もガスもなく、自分たちで井戸を掘り、まきで炊飯した記憶があるそうです。
(写真提供・山中圭子)

小学校・同高等科・新制中学在学中、「開墾にいる」というだけでいじめにあいました。戦災被災者に配給される衣服もごくわずかで、例えば、女の子のいる家には、夏の配給はワンピース1枚・スリップ1枚といった具合でしたから、私は毎日同じワンピースで通学し、帰宅すると直ぐ洗濯をして干し、家ではスリップだけでいました。戦災にも遭わず、荷物を疎開させていた人達は、農家に行き物々交換で食料を手に入れていました。ですから農家の娘さん達は綺麗な洋服を沢山持っていて、毎日変えて着てました。毎日同じ柄のワンピースを来て学校に行く私は「貧乏で服も買えない」といじめられましたが、ないものはないので仕方ありませんでした。
新制中学になっても、教科書は人数分きませんでした。抽選で数学の本が当たった人は、次の国語は抽選の資格がない。私は運が悪くて主要教科が殆んど当たらず、ざら紙に写させてもらい、糸でとじて本にしました。ノートは学校で使う分しか買えませんので、庭の片隅に小石を四角く並べて、内部はふるいで小石を除いて砂だけにし、これを家で使うノートとし、漢字やスペルを書いては消し、書いては消し復習しました。勿論電気もきていませんでした。布製の芯に灯油を吸わせて点火し、「ほや」をかぶせるランプでした。ランプの下では、小さい文字はとても見にくかったです。

「女子はなるべくメガネをかけないほうがいいから 目を大事にするように」と担任の先生から注意を受けました。
その頃の楽しみは、父がベースを入れながら吹いてくれるハーモニカに合わせて歌うこと、兄が部品を組み立てて作った鉱石ラジオで、ニュースや音楽を、一人ずつ交代で聞く(イヤホーンで)こと(茶色の小瓶のメロディを覚えました)でした。

その頃の金銭収入は、「豚を飼育して子どもが生まれると売る」くらいだったと思います。卵が欲しいから鶏を飼い、牛乳が飲みたいから山羊を飼っていました。豚の子供が多く生まれると、乳を貰えない仔がいて、その仔には山羊の乳を哺乳瓶で飲ませていました。

中学二年の夏、慣れない開墾作業で体調を崩していた母を、助けてくれていた祖母(父方の)が突然亡くなり、私の肩に主婦業が乗っかってきました。私は朝食の支度をし、鶏に餌をやり、山羊の乳を絞って仔豚に飲ませて、洗濯物を干し、一時間歩いて学校ヘ行くのですが、授業が始まると居眠りをして、先生によく叱られました。懐かしい思い出です。

母方の祖母から貰った伯母の市立の制服(ネクタイはしないで)と絣のもんぺで、中学に通いました。この制服は、外面が綺麗でも、背の部分(セーラー襟の下)がかなり痛んでいて、背を曲げると裂ける時があり、幾重にも修繕をして、でも嬉しく着ていました。
そうそう、私の中学の卒業写真は、「ララ物資で貰った ピンクの半袖セーター(黒ボタン)・ひじが薄くて擦り切れかかっている黒のカーデガン・グレーの襞スカート」を着用しています。

私は本が好きでした。でも買うお金はありません。学校の図書室にある本を卒業までに全部読んでしまおうと思い、学校の往復には必ず読書をし(現在のテクノロード・四輪車は走っていなかったので)、昼休みには、先生に見つからない場所を探して隠れて読みました。校長先生には良く見つかって、お叱りを受けました。(昼休みは外で遊びましょうという決りでしたから)

中学卒業式の日、答辞を読み終えてほっとしていると、女生徒がちぎった紙切れを差し出しました。それには「お前は、本当に生意気だった。今日は最後の日だから、やっつけてやる」と書いてありました。
(目立つことの嫌いな私が、生意気な振る舞いはしていなかったと、自分では思うのですが)怖くなった私は担任に見せ、職員会議の終わるのを待って、先生に家まで送っていただきました。

当時は給食はなくて、お弁当は主食は畑で育てた陸稲(おかぼ)と陸稲のもち米を混ぜたもの(陸稲は水分が少ないのでぼそぼそご飯、もち米を加えることで、少ししっとり感が増す)おかずは焼き魚が入ればご馳走で、ごま塩をご飯にかけて玉子焼きだけが多かったように思います。

 

昭和24年

北高に入ってからも、伯母のお古(市立の制服)を着ました。外からは見えないけれど、背中(セーラーカラーの下の部分)に沢山接ぎをあて修繕しましたが、それがかえって冬は暖かくて、やせっぽちの私には嬉しかったです。市立の制服(ネクタイ無し)の上に、和服を解いて作ってもらったハーフコートと襞スカート(グレー系)私はこれを通学服と決めていました。通学用の鞄は、祖母から貰った帯芯で作りました。
夏休みなど数回だけの登校日のために、定期は買えませんから、自転車で登校しました。その頃の自転車は女子用はなく、男子乗りを使っていました。

 

昭和27年高校卒業

卒業が近づいて、経済的に貧しい我が家では、勿論進学するのは不可能でした。(勿論成績も良くなかったのですが)でも、高齢になっても自活の出来る資格を持つために、夜学でもいいから進学したい気持ちが強くありました。薬学科に進み薬剤師の資格を持てば自家でも仕事をすることが出来ると思い、担任に相談してみましたが、実験が多い科目は夜学は無理でしょうということでした。進学を真っ向から反対したのは母でした。
母の妹は市立から奈良女高師へ進み、市立で勤務していたこともあるのですが、結婚が遅れて、祖母がはらはらしたという話を何回も聞かされていたらしいのです。

募集のあった静岡銀行へ受験しました。受験科目がいくつか終わり、「男子は今から英語のテストがあります。女子はお帰りください」というアナウンスがありました。男女差別がハッキリしていました。
なんとか一次が通過して面接になったとき「北高に女子を募集した覚えがない」試験官の言葉でした。
でも入行を許可されて浜松支店に配属されました。そのころは、窓口には男性ばかり座っていました。入行1年生の仕事は、朝届いた郵便物を開封し各部署へ配ること、支店の近くのお得意さんへ日掛けの集金に回ること、窓口の「ベル」が「チン」となると、その場所へ走って行き、通帳を係りに運び、記帳の済んだ通帳を窓口へ届けること、夕方には各部署から集まってくる書類を封筒に入れ宛名を書き、切手を貼って郵便局へ運ぶこと、で明け暮れていました。2年目になり私は内国為替係りになりました。
OJTの方は厳しいけれど暖かい性格でした。(今でもお付き合いがあります)

当時の化粧品についてですが、銀行の裏にあった「ぬいや」さんの奥さんと仲良しになり「資生堂とカネボウ」のサンプルを良く貰いました。
私はお金を貯めたくて時々しか買いませんでしたが、先輩達が沢山買ってくれるので、お相伴に預かり、殆んどサンプルで済ましていました。 「美容液」と呼ばれるものはなかったと思います。
今では考えられないこんな生活もありました。

 

昭和30年 銀行生活3年目

私はわずかな給料でもせっせと貯めて、資格を取りたいと考えていました。
母は娘が売れ残っては大変と考えていました。健康を取り戻しかけてはいましたが、母親に心配を掛けさせてはいけない思いは強くあり、縁談があって、母親が乗り気で、結婚することになりました。

商工会議所で挙式、和地山(主人の父が建ててくれた)に住み、30年12月長男が誕生しました。翌年主人の母が急死し、(主人の母も広沢で戦災に遭い、開墾作業で体調を崩していたようです)父の面倒を見るために三幸町(今の)に移りました。 私の立場は農家の主婦になりました。長男をおんぶして、鍬を持って、近所のおばさん達(義父は学校に勤め、主人も会社勤務だったので、畑作業を手伝ってもらっていました)と畑に出ました。朝8時におばさん達が来てくれるので、それまでに洗濯をして干し一緒に働きました。おばさん達がひと畝進むのに、私は半分も進めず、畑仕事は前かがみになるので、背中では赤ん坊が嫌がるけれど、なんとか追いつこうと私も一生懸命でした。

洗濯機はまだありませんでした。井戸からつるべで水を汲み、盥に洗濯板を入れて固形石鹸で手洗いです。大物は盥に入れて足で踏みました。よく絞ったつもりでも干した物から、ぽたりぽたりと水が落ちます。当然乾く時間も大幅に必要になります。次男が生まれる頃には、ローラーつきの洗濯機が売り出され、つるべが電動モーターに変わり、大分楽になりました。
珍しいものがあるといって、近所の人達が見に来るという時代でした。

子供が2人になって直ぐに、オルガンを買ってもらいました。雨の日は子供を交互に膝に乗せてオルガンを弾きながら大声で歌いました。ピアノがあるといって見に来た人もいました。
雨の日は子供のおしっこの回数が増え、おむつが忙しくなります。
浴衣の洗いざらしを解いて作ったおむつは、綿100%だから、ローラーで絞ったにしても、なかなか乾いてくれません。七輪に火を起こし、針金で編んだ立方体(底なし・農家では畑の草を食べさせるため鶏や兎を入れて移動させる)を被せて、そこにおむつをかけて乾かしました。早く乾かしたくて火加減を少し強くすると、焦がしたことは度々ありました。

それから3年たって長女が生まれました。舗装されていない穴だらけのでこぼこ道で、雨の後は水溜りで大変でした。買い物に行くとき、自転車で行くほうが早いから3人を連れて行きました。長女をおんぶし、前の子供椅子に次男を乗せ、長男に後ろから荷台に飛び乗ってもらい、4人乗りをしてました。それも男のり自転車でした。(写真を撮っておけば良かった、証拠になったのに・・・と残念です)

子供達が幼かった頃には、主人や主人の父の古いズボンを解いて、衣服は手作りしました。下着はブロードで作りました。割合尺を使うと、洋裁を習ったことのない私ですが、首と手の出る可愛い洋服が出来ました。嬉しくてたくさん作りました。