「古い記憶を頼りに…」 足立美佐(4回)
昭和20年〜21年 浜松大空襲の前後 昭和20年3月に吹田第一国民学校(小学校)5年を終えて、浜松に移ることになりました。本土空襲がひどくなったこの時期に移転した理由は、父に赤紙が来て応召したこと、吹田では空襲を受けた場合に頼る親戚が近隣にないので、近くにいてもらったほうが安心という(母方の)祖父母の意見を聞き、祖父母の住んでいた三組町の家に来ることになりました。 6月18日夜 浜松大空襲の日 警戒警報から空襲警報発令までに、余り時間がなかった気がします。焼夷弾を積んだB29が浜松上空に現れ、投下しました。裏庭に防空壕があり、そこに避難していたのですが、家に火の手が上がり、秋葉神社境内の防空壕に逃げることにしましたが、履物がないことに気付きました。兄と一緒に燃えている台所に入り、手当たり次第に履物を集めてきました。 家に行って見ると、何もありません。裏庭の壕は中まで焼けていました。 祖父の編んでくれた藁草履を履いて、三岳から1時間をかけての通学です。 授業で、先生の「わかる人、手を上げて」に反応した私は、生意気な疎開者ということで、男子生徒から石を投げられ、1年上のお姉さんに守られて道のない山の中を逃げて帰宅したものでした。あとから判ったことですが、クラスに旧家のお嬢さんがいて、「彼女が手を上げる前に他の人が手を上げてはいけない」という暗黙の了解が成り立っていたのだそうです。私はそんなこと知りませんでしたし、教えてくれる人もいませんでした。それからは「判っていても絶対に手を上げない」ことに決めました。兄は(大阪府立)茨木中学から一中へ編入し、朝4時に起きて井伊谷駅から軽便に乗り通学していましたが、体力が続かず中途退学をしました。本当に可愛そうなことをしました。 食糧難の時代でした。祖父のみかん畑の樹と樹の間の土を借りてサツマイモを植えましたが、秋になって収穫に行ってみると、誰かが探り掘りをして、小さな芋だけが残っていました。疎開者に対する嫌がらせだったようで、本当にがっかりしたのを覚えています。
昭和21年2月 父が復員しましたので、いつまでも祖父母の家にいるわけにもいきません。 笹の生い茂った原っぱの開墾が始まり、私は三方原小学校6年へ編入しました。その頃の住所は97部隊が使っていた兵舎で、細い廊下の両側に板張りの部屋が並んでいて、戦災者や外地からの引揚者が1部屋ずつ借りていました。 台所はないので、出入り口のコンクリート部分に七輪を置いて食事の用意をしました。5〜6軒が集まるので、貰い火をすると、最初の人のマッチ一本で済んでしまいます。マッチは貴重品でした。お鍋一つで出来る「おぞうすい」を毎日食べていたように思います。 しばらく経ってから、(政府の援助だったのでしょうか)入植した土地に家が出来ました。小さい床の間と押入れのついた6畳和室に、3畳くらいの板の間、入り口は土間で3畳くらい。それでも、家族だけの生活ですから、兵舎にいるよりは ましでした。6畳の和室に2組の布団を敷き、7人が寝ました。どうして寝たと思います? 一ヵ月後には小学校卒業です。(旧制)女学校へ進む人達を羨ましく思いました。母や叔母達の卒業した市立へ、私も行きたかった。私は小学校高等科一年になりました。担任の先生から、経済的な理由で進学できない場合は、給費制度のある師範学校に行きなさいとアドバイスされ、本をお借りして、受験準備を始めました。が、翌年4月から新教育法実施により、新制中学二年になり、師範学校は大学に昇格しました。大学に進学するには新制高校三年を卒業しなければならなくなりました。
小学校・同高等科・新制中学在学中、「開墾にいる」というだけでいじめにあいました。戦災被災者に配給される衣服もごくわずかで、例えば、女の子のいる家には、夏の配給はワンピース1枚・スリップ1枚といった具合でしたから、私は毎日同じワンピースで通学し、帰宅すると直ぐ洗濯をして干し、家ではスリップだけでいました。戦災にも遭わず、荷物を疎開させていた人達は、農家に行き物々交換で食料を手に入れていました。ですから農家の娘さん達は綺麗な洋服を沢山持っていて、毎日変えて着てました。毎日同じ柄のワンピースを来て学校に行く私は「貧乏で服も買えない」といじめられましたが、ないものはないので仕方ありませんでした。 「女子はなるべくメガネをかけないほうがいいから 目を大事にするように」と担任の先生から注意を受けました。 その頃の金銭収入は、「豚を飼育して子どもが生まれると売る」くらいだったと思います。卵が欲しいから鶏を飼い、牛乳が飲みたいから山羊を飼っていました。豚の子供が多く生まれると、乳を貰えない仔がいて、その仔には山羊の乳を哺乳瓶で飲ませていました。 中学二年の夏、慣れない開墾作業で体調を崩していた母を、助けてくれていた祖母(父方の)が突然亡くなり、私の肩に主婦業が乗っかってきました。私は朝食の支度をし、鶏に餌をやり、山羊の乳を絞って仔豚に飲ませて、洗濯物を干し、一時間歩いて学校ヘ行くのですが、授業が始まると居眠りをして、先生によく叱られました。懐かしい思い出です。 母方の祖母から貰った伯母の市立の制服(ネクタイはしないで)と絣のもんぺで、中学に通いました。この制服は、外面が綺麗でも、背の部分(セーラー襟の下)がかなり痛んでいて、背を曲げると裂ける時があり、幾重にも修繕をして、でも嬉しく着ていました。 私は本が好きでした。でも買うお金はありません。学校の図書室にある本を卒業までに全部読んでしまおうと思い、学校の往復には必ず読書をし(現在のテクノロード・四輪車は走っていなかったので)、昼休みには、先生に見つからない場所を探して隠れて読みました。校長先生には良く見つかって、お叱りを受けました。(昼休みは外で遊びましょうという決りでしたから) 中学卒業式の日、答辞を読み終えてほっとしていると、女生徒がちぎった紙切れを差し出しました。それには「お前は、本当に生意気だった。今日は最後の日だから、やっつけてやる」と書いてありました。 当時は給食はなくて、お弁当は主食は畑で育てた陸稲(おかぼ)と陸稲のもち米を混ぜたもの(陸稲は水分が少ないのでぼそぼそご飯、もち米を加えることで、少ししっとり感が増す)おかずは焼き魚が入ればご馳走で、ごま塩をご飯にかけて玉子焼きだけが多かったように思います。
昭和24年 北高に入ってからも、伯母のお古(市立の制服)を着ました。外からは見えないけれど、背中(セーラーカラーの下の部分)に沢山接ぎをあて修繕しましたが、それがかえって冬は暖かくて、やせっぽちの私には嬉しかったです。市立の制服(ネクタイ無し)の上に、和服を解いて作ってもらったハーフコートと襞スカート(グレー系)私はこれを通学服と決めていました。通学用の鞄は、祖母から貰った帯芯で作りました。
昭和27年高校卒業 卒業が近づいて、経済的に貧しい我が家では、勿論進学するのは不可能でした。(勿論成績も良くなかったのですが)でも、高齢になっても自活の出来る資格を持つために、夜学でもいいから進学したい気持ちが強くありました。薬学科に進み薬剤師の資格を持てば自家でも仕事をすることが出来ると思い、担任に相談してみましたが、実験が多い科目は夜学は無理でしょうということでした。進学を真っ向から反対したのは母でした。 募集のあった静岡銀行へ受験しました。受験科目がいくつか終わり、「男子は今から英語のテストがあります。女子はお帰りください」というアナウンスがありました。男女差別がハッキリしていました。 当時の化粧品についてですが、銀行の裏にあった「ぬいや」さんの奥さんと仲良しになり「資生堂とカネボウ」のサンプルを良く貰いました。
昭和30年 銀行生活3年目 私はわずかな給料でもせっせと貯めて、資格を取りたいと考えていました。 商工会議所で挙式、和地山(主人の父が建ててくれた)に住み、30年12月長男が誕生しました。翌年主人の母が急死し、(主人の母も広沢で戦災に遭い、開墾作業で体調を崩していたようです)父の面倒を見るために三幸町(今の)に移りました。 私の立場は農家の主婦になりました。長男をおんぶして、鍬を持って、近所のおばさん達(義父は学校に勤め、主人も会社勤務だったので、畑作業を手伝ってもらっていました)と畑に出ました。朝8時におばさん達が来てくれるので、それまでに洗濯をして干し一緒に働きました。おばさん達がひと畝進むのに、私は半分も進めず、畑仕事は前かがみになるので、背中では赤ん坊が嫌がるけれど、なんとか追いつこうと私も一生懸命でした。 洗濯機はまだありませんでした。井戸からつるべで水を汲み、盥に洗濯板を入れて固形石鹸で手洗いです。大物は盥に入れて足で踏みました。よく絞ったつもりでも干した物から、ぽたりぽたりと水が落ちます。当然乾く時間も大幅に必要になります。次男が生まれる頃には、ローラーつきの洗濯機が売り出され、つるべが電動モーターに変わり、大分楽になりました。 子供が2人になって直ぐに、オルガンを買ってもらいました。雨の日は子供を交互に膝に乗せてオルガンを弾きながら大声で歌いました。ピアノがあるといって見に来た人もいました。 それから3年たって長女が生まれました。舗装されていない穴だらけのでこぼこ道で、雨の後は水溜りで大変でした。買い物に行くとき、自転車で行くほうが早いから3人を連れて行きました。長女をおんぶし、前の子供椅子に次男を乗せ、長男に後ろから荷台に飛び乗ってもらい、4人乗りをしてました。それも男のり自転車でした。(写真を撮っておけば良かった、証拠になったのに・・・と残念です) 子供達が幼かった頃には、主人や主人の父の古いズボンを解いて、衣服は手作りしました。下着はブロードで作りました。割合尺を使うと、洋裁を習ったことのない私ですが、首と手の出る可愛い洋服が出来ました。嬉しくてたくさん作りました。
|