1回 京都御所

 私が京都で暮らし始めたのは1977(昭和52)年でしたので、かれこれ36年になります。18歳まで浜松で育ち、浜松人として完成した私は京都での生活が倍になりましたが心身ともに浜松人のままで、ここでは相変わらずよそ者です。冷や汗をかきながら生活をしてきましたが恥をかいていると気づいたのも10年位経ってからでした。
 そんな私が感じた京都をつづってみようと思います。

 第1回は恐れ多くも「京都御所」についてです。というのも先日1月22日、しらはぎ会京都旅行で見学し、記憶も新しいところ、この4月13日にある集まりで宮内庁京都御所事務所長の北啓太氏の講演「京都御所~その歴史から」を聞く機会に恵まれたからです。
 北氏は宮内庁書陵部に勤務され、皇室制度の歴史的研究をされていて、宮内庁正倉院事務所長を経て、平成20年より現職に就かれたとのことです。

 

 先の拙文、「京都旅行を終えて」に書いたとおり、現在の京都御所は明治2年まで歴代の天皇がお住まいになった内裏ですが、桓武天皇が平安京に遷都された場所はもっと西、現在の千本通がかつての朱雀大路に当たります。
 内裏は何度も火災に遭い、その度に再建されますがその間天皇は貴族の邸宅などを仮皇居に充て、これを里内裏と呼ぶようになりました。現在の京都御所は土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と言われる里内裏のひとつで平安末期以降用いられ、明治2年まで皇居とされました。

 ここで、高校の古典の授業を思い出しましたが、藤原道長の邸宅を土御門殿と言いましたね。中宮彰子はここから入内し、敦成親王(後一条天皇)、敦良親王(後朱雀天皇)を出産したのもこの邸、道長の3女威子が後一条天皇の中宮となり、その立后の祝宴の時に道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と歌ったのもこの邸です。つまりここも別の里内裏で現京都御所のすぐ近くにあったようです。

 平安京の地図を見てみますと、一条大路と近衞大路の間に土御門大路があります。現在の京都では土御門通というのは存在しませんが一条通、近衞通はそのままあります。藤原摂関家の筆頭である近衞家がこの近衞通に邸があったからそう呼ばれる様になったのは言うまでもありません。

 さて、北氏のお話で驚いたことには、武士の時代には皇后や皇太子もおらず、その初期には即位式が何年も経ってから行われたり、崩御の際の葬式すら行われなかったとのことです。それほど貧窮していたのですね。

 もう一つ意外だったお話は、崇徳天皇、安徳天皇、順徳天皇と徳がつく天皇は京都以外の地で非業の死を遂げたのだそうです。

 都の雅なお話とは程遠いことばかり書いてしまいました。次回は「応仁の乱」の頃、とくに御所の財政が逼迫していた頃、天皇に毎朝「御朝物(おあさのもの)」と称する朝の餅を届け続けた「川端道喜」という和菓子屋さんのことを書きたいと思います。

(2013.4.17記)

 
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