回 ちまきと川端道喜

 京都のことをあれこれ語るのに、私の大好きな和菓子をテーマにして書いていこうと思います。

 前回、京都御所出入りの川端道喜について少し触れましたがこの川端道喜という菓子屋は1503年頃の創業、室町時代より御所に行事の為の餅やちまきを納めてきた老舗の中の老舗です。応仁の乱の後、都は荒廃し、朝廷のご難渋は召し上がりものにも事欠くほどで、その時、道喜が毎朝献上した餅は「御朝物(おあさのもの)」と呼ばれ、明治維新まで350年もの間「朝餉(あさがれい)の儀」として続いたというのですから驚きます。詳しいことは15代目川端道喜が岩波新書『和菓子の京都』(1990)に書いています。

 昨年末、ひょんなことから16代目の奥様と知り合う機会があり、その御朝物を何年か前に姑である15代目夫人とともに再現した話を伺いました。搗き餅を芯にして、外を塩味の小豆の潰し餡で丸め、野球のボールより少し大きめの形にしたもので、後々は砂糖を少し敷いて、召し上がったと伝えられているそうです。正親町(おおぎまち)天皇くらいまでは召し上がっていたようですが、後水尾天皇の頃には江戸時代になり、幕府から財政援助もあり、もうただご覧になるだけになったようです。
 ところで、この16代目の奥様は日本画家で、秋野不矩さんとも関わりがあったとのことです。なにかご縁を感じました。
 350年間毎朝6個ずつ届けた御所の出入り口は通称「道喜門」と呼ばれ、紫宸殿の真正面「建礼門」のすぐ東側に今でもあります。1月のしらはぎ会京都旅行のとき、確認して参りましたが、京都御所のパンフレットには「穴門」と小さく書かれていました。

 さて、その道喜のちまきです。店ののれんには「御ちまき司 どうき」と染め抜かれています。「御」という字をつけるのは禁裏御用という意味あいで、つまり江戸時代までは御所御用ということでした。よく「御用達」(関東ではごようたし、関西ではごようたつ)という言葉を聞きますが、これは明治以降の用語だそうです。
 ちまきのルーツは中国の屈原の故事にあるようです。日本には奈良時代、仏教と相前後して五節句の節物(せちもの)として渡来したといわれています。いつ頃から食するようになったかは不明ですが、京都ではちまきといえば厄除け祈願と結びつけられています。祇園祭の時、各鉾町で売っているちまきを求めて、家々の玄関先にぶら下げる風習があります。ちまきを巻く笹の防菌作用に由来しているのでしょうか。

 道喜のちまきは吉野葛を練って作った半透明の白い「水仙粽」、それに漉し餡を練り込んだ「羊羹粽」の2種類でどちらも味は淡泊で上品です。1本のちまきに笹を4,5枚使いきっちりと包み、藺草(いぐさ)の殻で巻き締め5本を1つに束ねて、熱湯のぐらぐら煮立っている中へ放り込みます。湯がくことによって、糖分が適度に抜けて、ほどよい甘さになるのだそうです。笹も熱湯をくぐらすことで落ち着いた色合いになります。随分前から良質の笹や吉野葛が入手しづらくなり、材料の確保に苦労されているとのことです。
 念のため申し添えますが、祇園祭の時に鉾町で売られている厄除けちまきは食べられません。

 現在の川端道喜はかつての御所近くから何度か居を移し、下鴨本通り北山南西角にあります。5月と7月は一月前までに予約が必要です。ただ、最近は京都高島屋の地下で曜日によっては買うことができます。
 ちなみにお値段はそれぞれ5本1束で3900円です。これはかなり勇気のいるお買い物ですね。

(2013.5.29記)

 
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