10回 雛祭りと引千切り(ひちぎり)

3月の京都は日差しも明るく、春はすぐそこまで来ているようですが、気温が低く、雪の舞う日もあります。そのせいでしょうか、家庭のものは別として、人形寺として知られる宝鏡寺(上京区寺ノ内通、堀川東入ル)や、江戸時代の享保雛をはじめ紫宸殿写しの古今雛を所有することで有名な料理屋ちもとでは、3月1日から4月3日まで雛飾りをしています。
 わたしのお雛さまは母の兄である伯父から贈られた御殿飾りの雛人形でした。御殿の組み立てがとても複雑で、父が説明書を見ながら細かい作業をしていたのをよく覚えています。そして、御殿の中に収まっているお雛様はかなり小振りでした。しかし、それも小学生の途中まででした。というのも保管していたのが家に隣接した木工場の天井裏で、雨漏りしたらしく、ある年に出してみたら無残な姿になっていたのです。あの時のショックは忘れられません。
 夫の妹も御殿飾りのお雛さまを持っていて、小学校時代に友人何名かと家に呼ばれ、雛壇の前で遊び、将来義母となる人の作ってくれたお雛様寿司に大喜びしたものでした。その時は、ちらし寿司ではなく、男雛の衣装が海苔、女雛の衣装が薄焼き卵で包まれ、お顔はうずら卵に黒ごまと紅生姜で目と口がついていました。そんな2体のひな人形お寿司に目を奪われ、御殿飾りのお雛さまのことはあまりよく覚えていません。

今回、雛飾りのことを調べてみましたら、御殿飾りは江戸時代後期に、京都の御所での生活を華やかに細かく再現したもので、関西で普及したとのことです。一方、江戸ではお道具を沢山並べるために段飾りが主流であったようです。京都とその周辺で製作されていた御殿飾りは昭和10年代に入ると、名古屋や静岡などの東海地方においても量産されるようになります。戦時中、一時中断するものの、戦後復興とともに中部東海地方では金具で派手に装飾された御殿飾り雛が製造され、流行したようです。それが、昭和30年代後半、ぱったりと姿を消し、関東出身の段飾り雛が全国に普及していきます。義妹や私の雛人形はちょうど流行の最後の時期のものだったようです。
 とても気になったので、90歳になる伯父に電話をして購入したお店を聞き、直接その磐田の人形店の人に尋ねてみました。教えてくれた方は私より5歳年上のお嫁さんで、自分も御殿飾りを持っていたこと、近所の2つ下の子が段飾りで下から見上げて羨ましかったこと、当時は糊の品質もよくなく、御殿の細工がよく壊れたので廃れてしまったのではないかと、面白いお話をしてくださいました。

冒頭で触れた京料理の「ちもと」は享保3(1718)年創業の老舗で鴨川のほとり、四条通りを南に下がった西石垣(さいせき)通りにあります。同じ筋を四条より北に上がると先斗町(ぽんとちょう)です。
 今から10年以上前、久しぶりにこの時期に行きましたら、12時から大女将による雛飾りについての説明がありました。ちもとが誇る「紫宸殿写しの古今雛」は130年前の珍しい白木造りで、同じ宮大工の手になるものは皇室にあるとのことです。
 大女将の説明によると、ここの御殿の右手には御寝所(ごしんじょ)があり、中には夜具が延べてあるそうです。つまり、雛祭りは性教育の場であり、3歳から13歳までは雛祭り、それ以降は雛飾りというのだそうです。
 3人官女は側室とその候補で、真ん中が30代でお歯黒、すでにお手付き、両側の立っている2人は20代と10代の未婚ということで、若くして結婚しないといけなかった時代の性教育が、この雛飾りに込められているようです。さらに話は雛御膳、雛懐石の料理の説明にすすみ、潮汁の蛤は貝合わせに使われ、雛道具にもなっていますが、ぴったり合うのは1つしかないので、貞節をあらわし、菱餅の菱形やてっぱいに使う赤貝はそのものずばり女性の象徴であるとか、白酒は事後に飲むお酒とか、まあ顔を上げて聞くのははばかられるようなお話でした。
 この貞子女将は当時70代、その貫禄たるや大したものだと感心しました。ここではとても書けないことが30分間、立て板に水のごとく続きましたから、ご興味おありの方は是非どうぞ、と言いたいところですが、つい最近、若女将に代替わりしたそうです。

さて、雛祭りにちなんだお菓子は「引千切(ひちぎり)」で京都に来て初めて知りました。お餅を丸めて引っ張った形の上に餡玉を乗せ、そぼろ餡かきんとんで飾っています。台はよもぎ餅の時が多く、餡玉がなくて赤や白のきんとんが乗っているものもあります。引きちぎった形は昔、宮中で人手が足りない時に、餅を丸める手間を惜しんで引きちぎったのが始まりということです。それで、取っ手のような角が出ているのが特徴です。

3月3日の雛祭りは元々5節句のひとつ「上巳(じょうし)の節句」で、年齢、性別に関係なく草、わら、紙で造った人形(ひとがた)で体を撫で、穢れを移し、海や川に流していた禊ぎの風習でした。それと平安貴族の子女が、かわいらしい人形でしていたひいな遊びが結びついて、後の雛祭りになったようです。
 流し雛の習慣が子どもの身代わりとなる雛人形へと移り変わった訳ですので、雛飾りは代々受け継ぐものではないということを今回知りました。たとえ、嫁入り道具として持って行っても、女の子が生まれたらお雛様を新調しないといけません。わたしのお雛様は可哀想なことになりましたが、厄災を引き受けてくれたのかもしれません。娘には住宅事情に合わせて、昨今はやりの内裏雛のみの親王飾りにしました。飾るのもしまうのも楽で、とても気に入っています。
 お寿司は義母に倣って、ちらし寿司ではなく毎年、お雛様寿司を作りました。しかしながら、貞子女将によりますと、ちらし寿司も様々な具が入っていて、「高野豆腐のようなやわい男はん、れんこんのようにしゃきっとした人、錦糸玉子のように外見は華やかでも薄っぺらい男はん、世の中色々な男はんがいまっせ~、色んな男はんに出会って、ええおなごになりなはれ。」早く親離れさせるという意味からも「ちらす」という事らしいです。同じお寿司でも巻寿司では「巻き込む」抱え込むということでアカンのだそうです。
 いやはや、恐れ入りました。


参考サイト
日本玩具博物館 http://www.japan-toy-museum.org
池仁太 京都の暮らしことば「ひちぎり」ジャパンナレッジ http://www.japanknowledge.com

(2014.3.13記)

 
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