第16回 小倉百人一首と小倉餡


 前々回、百人一首をひとつ取りあげましたので、北高時代の苦い思い出がよみがえって来ました。それは1年の冬休みの古典の宿題に「小倉百人一首」の本が1冊配られ、休み明けにテストするから勉強しておくようにというものでした。2週間足らずの冬休み、真面目なだけが取り柄の私は1日数首ずつ、解釈や文法など自分なりに勉強したのでした。
 そして迎えたテストの日。なんと榎本良治先生は、私たちをだだっ広い柔道場に連れて行き、5つ程のグループに分け、かるた取りをさせたのです。2回やって取り札の枚数を合計して申告するというものでした。愕然としました。なぜなら、私はそれまで坊主めくりはしたことがあっても、百人一首のかるた取りは一度もしたことがなかったからです。結果は無残なものでした。バラ札が多いうちは、それでも取れましたが、半分ほどになると、すべて覚えているひとりの女の子が次々に取り、そのうち、申し訳なさそうに見回して、にこやかに残り全部の札を取ってしまいました。2回とも同じでした。小さい時から家でやっている子は違うなあとショックを受けました。

 「百人一首」とは百人の歌人の和歌を1首ずつ選んでまとめた歌集のことで、いくつか存在するそうですが、今日では「百人一首」といえば、「小倉百人一首」を指すのがふつうとなっています。それは、選者とされる藤原定家が和歌を選定した別荘の時雨亭が小倉山の山腹にあったといわれており、それにちなんだ名称です。小倉山は洛西嵯峨の大堰川(おおいがわ)を挟んで、嵐山に相対する地にあり、紅葉の名所として知られています。写真は時雨亭跡がある小倉山二尊院です。

 小倉といえば、あんこ好きの私なのに、なぜ小倉餡というのか深く考えたことはありませんでした。小豆の餡にはこし餡、粒餡、つぶし餡、小倉餡があります。皆さんご存じのようにこし餡は皮を取り除いて漉したもの、粒餡は小豆の形をとどめているもの、粒餡と混同されることが多いつぶし餡は、粒はあまり残っていず、皮ごとそのままつぶしながら練って作った餡です。
 そして、小倉餡は、小豆のなかでも大きな「大納言小豆」の蜜煮をこし餡に混ぜたものです。確かに餡の中に大きな小豆の粒が点々と見える様は鹿の子模様に見えます。
 この大納言小豆は京都府中部、丹波地方産が最高とされています。粒が大きくて皮が薄く、色つやがよく、独得の香りがあり高級和菓子材料として日本一の座を守り続けています。なぜ、「大納言小豆」と言われるかは、煮ても皮が割れない、切れないことから「切腹をさせられることがない公卿の官位である大納言」にたとえられるのだそうです。

 では、なぜ小倉餡というのか、今回調べてみましたら、京都の小倉山に関わりがあることがわかりました。
 平安時代809年頃、空海が唐から持ち帰った小豆の種子を嵯峨、小倉の里に住む和三郎というものが栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加えて煮詰めて餡を作り、毎年御所に献上したということです。写真は小倉山二尊院の中にある石碑です。
 別の説として、小豆の粒が鹿の白い斑紋(鹿の子模様)に似ていることから、鹿といえばもみじ、もみじといえば紅葉で有名な小倉山との連想から来たというのもあります。この連想の根拠は、やはり百人一首の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき」(猿丸太夫)と、「小倉山 峰のもみじ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」(貞信公=藤原忠平)でしょうか。

 あんこそのものを味わうお菓子といえば、最中です。最中は糯米(もちごめ)の粉をこね、薄くのばして型を取り焼いた皮を2枚合わせ、中に餡を詰めたものです。名前の由来は元々円形であったため十五夜の月になぞらえて、最中(もなか)の月と呼び、やがて「最中」とのみ通称されるようになったそうです。
 最中は皮がさくっとして、口の中で餡を引き立ててくれるものでないといけません。餡が勝負です。こし餡好きのわたしですが、私の最中ランキング1位は、京都ではなく、奈良県桜井市にある三輪明神、大神(おおみわ)神社の大鳥居の前にある白玉屋榮壽の「みむろ最中」です。
 数年前に桜井市の知人の家に招かれて、出されたのがみむろ最中でした。
小振りのごく普通の最中と思って口にした途端、あまりのおいしさに言葉を失いました。さらりとしたこし餡に少し粒餡が混ざっています。つまり小倉餡なのです。最中は餡と皮だけですから素材がすべてを決めます。ここのは大和産の大納言小豆と糯米を使用しています。創業は弘化元年(1844年)、170年間、製法は一子相伝7代にわたって受け継がれています。「みむろ」は大神神社のご神体である三輪山を三諸(みむろ)山ともいうのに因んだ名前だそうです。
 前回、私は日持ちするお菓子は日持ちしないものより味が劣る、と書きましたが、「みむろ最中」だけは違います。1週間たっても味が変わらないのです。この最中は作り立てとあまり変化がないので不思議です。ついもうひとつ、もうひとつと手が伸びてしまい、この間は1週間かけてひとりで30個ほとんど食べてしまいました。

 蛇足ですが、堀川方の従弟に百人一首の名手がいまして、娘に「かりほ」と名付けました。もちろん、百人一首の第1番、天智天皇の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」から取ったものです。
「ほりかわかりほ」なんと回文になっているのです。


   
参考文献 『BRUTUS−あんこ好き。』765号 2013.11.1
  金塚晴子『和菓子まるごと大全集』NHK趣味悠々 2001.9.1
  亀屋良永「小倉山」しおり
  白玉屋榮壽「名物みむろの志織里」
参考サイト  http://www.hi-net.zaq.ne.jp/james-c2/100/100.html

(2014.10.8記)