堀川佐江子 京都暮らし あれこれ

 

第18回 高倉健と比叡山大阿闍梨、そして阿闍梨餅

11月10日、高倉健さん死去のニュースには驚きました。ヤクザの健さんのファンだった訳ではなく、東映を離れてからの映画は好きでしたが、まだまだ死ぬわけがないと勝手に思い込んでいました。
 健さんの死後、それまであまり知られることのなかった素顔の様子が報道されました。その中で、とくに印象深かったのは、比叡山の大阿闍梨、酒井雄哉(さい、の文字は正しくは戈ではなく弋)師と親交をむすんでいた、ということです。酒井雄哉師といえば、去年亡くなった、京都では誰もが知っている立派な大阿闍梨さんです。

阿闍梨さんについて少し説明しますと、サンスクリット語のアジャリアを漢字で転写したのが「阿闍梨」で他を導く高僧の意味です。天台宗には千日回峰行という行があり、それを満行した僧のことを大阿闍梨といいます。酒井雄哉師はその難行を2回もされた方です。
 千日回峰行というのは、7年かけて1000日歩く行ですが、最初の3年は年に100日、1日30㎞歩いて、山中255箇所の霊場を巡拝します。4〜5年目は1年に200日、同じ修行を行い、合計700日が終わったところで「堂入り」という行をします。「堂入り」とは比叡山中の明王堂で、9日間の断食、断水、不眠、不臥で法華経と10万遍の不動真言を唱え、不動明王と一体になるというまさに人間を超えた難行です。満行すると「阿闍梨」と称され、生身の不動明王になるとされます。
 この行の後、6年目はこれまでの工程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日に60㎞を100日続けます。7年目は200日ではじめの100日は京都大廻りと呼ばれ、比叡山から赤山禅院、さらに京都市内を巡拝し、全行程は84㎞にもなります。市内の清浄華院で仮眠して、翌日は逆コースをたどって比叡山に帰ります。最後の100日はもとどおり比叡山中30㎞をめぐり、千日の満行をむかえます。
 合計1000日、歩く距離は地球1周に匹敵する4万㎞にも及びます。この難行を行った人は、織田信長の比叡山焼き討ち後、史料が残っている中で47名しかおらず、2回もしたのは酒井雄哉師を含めて3名だそうです。
 師が最初の千日回峰をやり遂げた1980年、私は新聞の全面記事で報道されたのを読んで、こういう修行があるのかと衝撃を受けました。当時、見上げたら比叡山がそこに見え、赤山禅院にも近い左京区修学院に住んでいましたので、なおさら感慨深く、京都大廻りでは目の前の白川通りを歩かれたのでは、などと思いました。
 今回、京都大廻りとはどこを巡拝していたのかと調べてみました。午前1時自坊出発、比叡山無動寺谷→雲母坂→赤山禅院→真如堂→行者橋→八坂神社→清水寺→六波羅密寺→因幡薬師→神泉苑→北野天満宮→西方尼寺→上御霊神社→下鴨神社→河合神社→清浄華院(宿泊)。翌日午前1時に出発して、その逆回りで比叡山へ戻る。
 わたしには馴染みのない場所もありますが、知っている神社、お寺だけでもこの距離を歩くなんて、気が遠くなりそうです。
 なお、千日回峰行を終えた者は京都御所への土足参内を行います。京都御所では、大阿闍梨のみが土足参内を許されていて、国家安寧、玉躰(天皇)安穏の加持祈祷をするのです。

健さんと師との出会いは、年間17、8本もの映画に出演して心身ともに限界だったときに、「お滝を受けてみたい」と滝行を希望し、京都のスタッフの伝手で紹介を受けたのが、比叡山の酒井師だったそうです。江利チエミさんが亡くなった1982年ごろのことで「心静かになれる場所を」と、東映の関係者と一緒に訪れたということです。
 健さんが座右の銘とされていたのが酒井雄哉師から送られた言葉「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」です。これは苛酷なロケが予定されていた映画「南極物語」(83年)の出演依頼を受けるかどうか迷っていたとき、阿闍梨さん(健さんは師のことを阿闍梨さんと呼んでいました)に戴いた言葉だそうです。
 12月1日の毎日新聞地方版に酒井師の弟子の、藤波源信大阿闍梨が取材されていて、「高倉さんは酒井さんを尊敬し、酒井さんは大の健さんファンだった。酒井さんは健さんが映画の撮影に入る前に必ず成功を祈願した札を贈り、その都度、健さんから礼状やサイン入りの写真集などが届いた。健さんが師の住まいである比叡山の飯室谷不動堂をたずねて来る日はそわそわした様子を見せ、健さんが巻いていたマフラーをもらった時は子供のようにうれしそうな顔を見せた」ということです。
 「文芸春秋」の手記を読んで、もうひとつ感銘を受けたところがあります。77年公開の「八甲田山」の撮影が3冬にも及んだとき、森谷司郎監督が酔っぱらって、「健さんはどうしてそんなに強いの」と泣きながら抱きついてきたことがあったそうです。お酒を飲まない健さんはしらふで「生きるのに必死だからですよ」と答えたそうです。
 高潔な心で真摯に生き切ったお二人には相通じるものを感じました。

一気に俗世界のお菓子の話になりますが、今や京都土産の代表格となった「阿闍梨餅」を紹介します。京都御所の北東、比叡山に向かう途中の百万遍の近くに阿闍梨餅のお店、「満月」があります。わたしが修学院から引っ越した先がこの近くでしたので、ベビーカーを押してよく買いに行きました。当時としては珍しく完全オートメーションでした。磨かれたステンレスの機械で次々に作られていく、できたての阿闍梨餅を買うことができました。「完全機械化ゆえに、材料は吟味して、良いものを使わないとそのまま味に出てしまう」と、当時のしおりに書いてあったように記憶しています。
 「満月」は江戸末期、安政3(1856)年創業。阿闍梨餅は大正11年、2代目当主が考案したそうです。餅粉をベースに卵などさまざまな素材を練り合わせた生地に、丹波大納言小豆の粒餡を包んで焼いた半生菓子。しっとりとした皮とあっさり風味の餡が見事に調和した逸品と評判です。
 1970年代に確か1つ70円でした。今、100円+税でこのお味。機械化のおかげですね。「材料の質は落とさず、値段は極力上げないよう努める」のが方針だそうで、うれしいことです。

この阿闍梨餅の形は阿闍梨さんがかぶる笠をかたどっているそうですが、酒井師が千日回峰でかぶった笠は蓮の葉が開く前の形をした、左右がめくれ上がった前後に長い笠です。
 健さんはご両親と江利チエミさんの位牌を酒井師のところに預けていたそうです。今頃、あちらの世界で健さんは酒井師と何を語らっているのでしょう。

参考文献 高倉健「最期の手記」『文芸春秋』2015年1月号
藤波源信インタビュー『毎日新聞』2014年12月1日
参考サイト 京都大廻り84km
赤山禅院
比叡山千日回峰行・ある行者の半生
天台宗
阿闍梨餅本舗 満月

(2014.12.22 記)