京都暮らし あれこれ 堀川佐江子

 

第30回 エルトゥールル号遭難事件と薄皮饅頭

今回は京都のことから離れ、遠くトルコの話です。今から125年前の1890年9月、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が台風に巻き込まれ、和歌山県大島村(現串本町)沖で遭難、生存者は69名、死者・行方不明者約500名という大惨事が起こりました。
 ことの始まりは1887年に小松宮彰仁親王殿下・同妃殿下がイスタンブルにオスマン帝国のスルタン、アブデュルハミトⅡ世を訪問したことの答礼として、トルコ初の親善使節として、エルトゥールル号の派遣を決定。一方でこれを機に、海軍の実習はもちろん、途中寄港するイスラーム諸国にオスマン帝国の威信を誇示する狙いもありました。1889年7月14日、イスタンブルを出航したエルトゥールル号ですが、すでに老朽化した木造艦で途中、破損・修理をしながら、当初6ヶ月の予定の航海が11ヶ月にも及び、横浜に到着したのは1890年6月7日でした。一行は明治天皇に拝謁するため皇居に赴き、スルタンの親書を奉呈しました。帰国の途に就こうとしたのですが、運悪く関東地方で流行していたコレラに感染した乗組員が多数出て、徹底した艦の消毒を受けることになったため、さらに帰国が2ヶ月延びてしまったのです。台風接近を知りながら、9月15日に横浜を出発、そして16日夜、大島沖で暴風雨の中、座礁、蒸気機関に海水が入り水蒸気爆発、沈没という悲惨な事故に遭遇してしまいました。
 その時、大島の漁村の漁師たちが総出で救助した話は有名で、現在に至るまでトルコより感謝されています。漁師たちは衣類、布団を提供し、蓄えていた貴重な食料も差し出し、不眠・不休で救助した69名を村の3名の医師とともに献身的に看護しました。悲しいことに、村人の捜索で見つけ出された239名の遺体のほか、200名以上は行方不明のままです。生存者69名は日本海軍の軍艦「金剛」と「比叡」両艦によって、イスタンブルまで送り届けられました。「比叡」には日露戦争で活躍した秋山真之が士官候補生として乗船していました。後の名将にとって初めての海外渡航経験となった訳です。
  この話は今年12月5日に公開された日本・トルコ合作映画「海難1890」として素晴らしい映像作品となりました。

映画の後半は、エルトゥールル号遭難事件より95年後の1985年、テヘランでのトルコ航空機による邦人救出の話です。これはイラン・イラク戦争が膠着する中、外国人たちが多く住むテヘラン市街地にも空爆が始まり、イラクのサダム・フセインが48時間後にイラン上空を飛行するすべての飛行機を無差別攻撃すると宣言。他の国々では救援機が到着し自国民を乗せてテヘランから脱出して行く中、就航便を持たない日本人200余名が取り残されます。在イラン日本大使は外務省に特別救援機を要請しますが、自衛隊は当時の法律で海外派兵の場合は国会決議が必要なため不可能。日航機は航行安全保障を取れないという理由で、成田空港に待機していた日航ジャンボ機が飛ぶことはありませんでした。
  そんな中、日本の商社マンの一人がトルコのオザル首相と懇意だったことで、電話で依頼。オザル首相の決断で定期便に加え、さらにもう一機救援機を飛ばすことで、日本人を優先してトルコ人とともに救出することができたのです。48時間のタイムリミットぎりぎりのことでした。
  実はこの時、私どもの親しい友人Nさんのご家族がテヘラン脱出をしたのです。今回、詳しくお話を聞いたところ、Nさんはルフトハンザ航空のチケットをやっとのことで手に入れ、お子さん二人と脱出できたのですが、そのご友人はテヘランを飛び立つ最終便であったトルコ航空機に乗り、「トルコ国境に入ったところで、機長のアナウンス“ただ今、国境線を越えました。Welcome to TURKEY”の声にホッとした」とおっしゃっていました。「イスタンブルに到着した時、客室乗務員にお礼の言葉を述べると、冷静に仕事をしていたその乗務員が涙ぐんでいました。きっと彼女も怖かったのだと思います。」そのときの緊張感が伝わってくる言葉でした。
 なお、Nさんのご主人はY新聞の記者ですので、職務上テヘランに残りました。

映画「海難1890」を見た直後の12月16日、企画・監督をされた田中敏光氏のお話を聞く機会に恵まれました。会場は京都の老舗ロシアレストラン「キエフ」で、歌手の加藤登紀子さんの父上が創業し、現在は兄上がオーナーのお店です。映画はちょうど1年前、厳寒の京都で撮影がスタートしたそうです。昨冬の京都はよく雪が降りました。そんな中、東映京都撮影所でずぶ濡れになりながら、海難シーンを撮ったとは、聞いていて身震いしてしまいました。
 監督のお話で一番印象に残ったのは「今、目の前に困っている人がいたら助けるのは当然のことという、まごころがこの映画を貫いている主題です」とおっしゃったところでした。オスマン帝国政府から治療費を受け取ってほしいという申し出に、治療にあたった医師たちは、「そのお金(今の金額で4000万円ほど)は乗組員の遺族のために使ってください」と断った文書が残っているそうです。
 トルコからは生存者を送り届けた「金剛」「比叡」の乗組員の上官から水兵までメダルが贈られ、また大島村の村長に勲章・勲記を、医師たちのほか、関係者に感謝の手紙が届けられました。余談ですが、8年程前、村の巡査だった方のお孫さんが京都にお住まいで、夫を訪ねて来て、「救出した兵士から贈られた軍刀と共に、アラビア文字で書かれたオスマン・トルコ語の手紙が家宝として残っているが、読んでほしい」と依頼されました。それは格調高い丁重な感謝状でした。
  今年9月16、17日、遭難事件125周年を記念して、トルコ海軍主催で「エルトゥールル号の軌跡における海軍と外交国際シンポジウム」がイスタンブルの海事博物館で開催されました。私も同行して参加しましたが、真っ白い制服を着たかっこいい海軍のおじ様たちが、心から感謝と追悼の意をあらわしている姿を見て、遭難した方々の無念に思いを馳せました。

ところで、私たち家族は1983年から84年にかけて1年間、トルコの首都アンカラに滞在しました。その時の1年間は大変快適で、わたしの人生で一番楽しかった時ではないかと思います。というのは、トルコの人たちが好意的で、何かと親切にしてくださったからです。幼児二人連れてバスに乗ろうものなら、ひげ面の男性5人くらいがさっと立って席を譲ってくれるのです。当時、トルコが親日的なのは、日露戦争で日本がロシアに勝ったからだと聞いていました。実際、アンカラには東郷平八郎にちなみ、TOGOという靴屋さんがありました。しかしながら、エルトゥールル号の話は一度も聞いたことがありませんでした。
  ですから、85年のトルコ航空機の救援のニュースは、親日の国だからと思ったものです。その後、90年に串本町でエルトゥールル号遭難100周年の記念式典が行われた際に、トルコの軍楽隊が京都河原町通りをパレードするという行事があり、見に行きました。私は中学校時代ブラスバンド部でクラリネットを吹いていましたが、ブラスバンドの元になったのが、トルコの軍楽隊だと知ったのはアンカラ時代です。モーツァルトのトルコ行進曲も、オスマン帝国の軍楽隊が演奏するメロディーをモチーフにしています。オスマン帝国軍は2度もウィーンを攻めているのです。

何と串本町では遭難以来、第2次世界大戦中に一時中断したものの、トルコ共和国との共催で5年ごとに慰霊祭が行われていました。夫がその追悼式典に初めて行ったのが1995年の105周年の時でした。この時のお土産が今回ご紹介する儀平さんの「うすかわ饅頭」だったのです。
  最初に頂いた時の印象は「全く甘くない薄紫色のこし餡が薄皮からところどころ覗いていて、皮とたっぷりのこし餡が絶妙のバランス」でした。当然、2つ、3つと手が出てしまいます。串本生まれの儀平さんが明治26年に「甘くない饅頭があってもいいのではないか」という発想で作ったのだそうです。当時、饅頭は甘さが美味しさの基準とされていた時代ですから、画期的だったと思います。甘さ控え目ということは、材料を吟味しているということです。
  私は2000年と2010年の追悼式典に参加しました。どちらも今は亡き寛仁親王殿下が臨席されていました。日本とトルコの関係の発端が皇室とスルタンの関係でしたので、必ず臨席されるのです。今はご長女の彬子女王殿下が引き継いでいらっしゃいます。

串本にはもちろん厳粛な気持ちで出かけますが、帰りに儀平さんに寄って「うすかわ饅頭」を買うのが楽しみであることは否めません。トルコとのご縁をありがたく思っています。

 

参考文献 『絆—トルコと日本の120年』日本トルコ文化協会(編)2011
テヘラン中井特派員「日航に救援機要請—テヘラン空爆で日本人会」1985.3.19
 読売新聞朝刊
同        「政府、邦人救出を急ぐ—日航機派遣など詰め」1985.3.19
 読売新聞夕刊
フォーラム『ユーラシアの新しい架け橋を求めて』—21世紀の日本とトルコ—報告集 日本トルコ文化協会 1994
参考サイト YouTube(NHKプロジェクトX、第135回「撃墜予告 テヘラン発最終フライトに急げ」2004年1月27日放送)
儀平菓舗 うすかわ饅頭 

(2015.12.23  高25回 堀川佐江子記)