京都暮らし あれこれ 堀川佐江子

 

第31回 杉原千畝と栗きんとん

先月第30回で取り上げた映画「海難1890」と同じ12月5日に、終戦70周年特別企画の映画「杉原千畝——スギハラチウネ」が公開されました。私が杉原千畝を知ったのはフジテレビ制作のドラマ「命のビザ」(1992年12月8日放映)で加藤剛が主演したものを見た時です。彼は日本の外交官で、1940年、リトアニアのカウナス(当時の臨時首都、現在の首都はヴィリニュス)でポーランドから逃れてきたユダヤ人に、外務省の許可が下りないまま、日本を通過するビザを発給して、6000人もの命を救った人です。この映画では唐沢寿明さんが演じています。

 ドイツとソ連に挟まれた国であるバルト3国のひとつ、リトアニアには元々多くのユダヤ人が暮らしていましたが、ポーランドに住んでいたユダヤ人はナチス・ドイツのポーランド侵攻により、隣国のリトアニアに逃げて来ました。アメリカ等に行き着くためには、西のドイツにはもちろん行けませんから、ソ連を経由し、日本を通過して行くしか方法がありません。ちょうどその時、リトアニアに領事代理として赴任していたのが杉原千畝でした。杉原は、ビザを求めて領事館の前を埋め尽くす群衆を見殺しにするわけにいかず、本省の指示に逆らう形でビザの発行を決断。ソ連によるリトアニア併合で領事館を閉鎖する迄、1ヶ月の間に2139枚の手書きビザを書き続けました。1家族1枚のビザでよかったため、記録から漏れている人を合わせて、杉原によって命を救われたユダヤ人は6000人といわれています。
 その後、杉原はチェコのプラハ、ドイツ領・東プロイセンのケーニヒスベルク、ルーマニアのブカレストとヨーロッパ各地で外交官として活躍します。外交官の重要な仕事のひとつに、情報収集、分析、精査して未来を予測する諜報活動があります。スパイとは似て非なるものでこの仕事をする外交官をインテリジェント・オフィサーというそうです。杉原は語学の達人でロシア語、英語、ドイツ語、フランス語を駆使してその任務を遂行していました。今回の映画はそのあたりの優秀な仕事ぶりをきっちり描いていました。そして1945年に日本は敗戦。一家はソ連の収容所に入れられ、やっとの思いで1947年に帰国しますが、外務省からは罷免の通告を受けてしまいます。覚悟していたとは言え、どんなに無念だったことかと推測するのは容易です。
 それからの杉原はロシア語を生かし、様々な職を経て貿易会社に勤務し、モスクワに駐在します。そんな折、杉原のビザによって救われた一人のユダヤ人が彼を捜し出し、感動の再会を果たします。1969年、杉原はイスラエルに招かれ、ヤド・バシェム(国立ホロコースト記念館)にて、記念の植樹をしました。ヤド・バシェムには博物館、資料館、追憶の殿堂があります。ナチスに殺害されたユダヤ人の追悼と、ユダヤ人を救った異邦人を讃えるための施設です。
 さらに亡くなる前年の1985年、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」が授与されました。これはナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅、すなわちホロコーストから自らの危険を冒してまで、ユダヤ人を守った非ユダヤ人に感謝と敬意を示す称号です。他に有名な受賞者には1993年のスティーヴン・スピルバーグ監督のハリウッド映画「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーがいますし、オランダの電機メーカ−、フィリップス社の社長フレデリック・フィリップスもそうです。

実は、私はそのヤド・バシェムに行ったことがあるのです。2010年に息子がエルサレムに滞在していましたので、家族で訪れたところ、「ヤド・バシェムは行って来たらいいよ」と勧められ、なんとかバスに乗り、エルサレムの西の丘にある広大な施設を見学して来ました。杉原千畝のプレートの付いた植樹も見てきました。一番胸が痛んだのは、犠牲となったユダヤ人の子供たちの霊を鎮める建物で、内部は一面かわいい子供たちの写真で埋め尽くされていました。
 そして、驚いたことに、先月この映画を見た翌日、息子が京都の同志社大学でシカゴから来られたユダヤ人、ジョセフ・スターン氏の講演を聞いたのですが、その夫人シェリル・ベト・ニューマンさんの父がなんと杉原千畝のビザで来日し、神戸に滞在したと話されたそうです。杉原ビザを手に入れることができたユダヤ人はシベリア鉄道でウラジオストックまで行き、そこから船で敦賀に上陸。さらに神戸から上海、または横浜からアメリカ、イスラエルに渡ったようです。

杉原千畝は1900年1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれました。岐阜のお菓子で思い出すのは中津川の栗きんとんです。栗と砂糖だけで、茶巾絞りにしたものです。調べてみましたら、八百津町の緑屋老舗(明治5年創業)の3代目翠翁、白木鍵次郎さんが大正時代に作り始めたものということがわかりました。当時の大仙寺のご住職がたびたび京都に出かけており、その助言で栗金飩(きんとん)が誕生したそうです。その後、中津川方面に伝わったようです。
 杉原千畝の出身地である八百津町は木曽川に面した栗の名産地です。近隣の契約農家50軒以上から届けられた栗を蒸し、半分に割り、取り出した栗に少量の砂糖を加え、あっさり炊き上げ、ひとつひとつ晒(さらし)で茶巾絞りに形作られます。緑屋老舗は「栗金飩」と漢字を使い、祖父から父へ、父から息子へと父子相伝で1店舗のみ、昔のままの材料と作り方で丁寧に手づくりしています。食感はほくほくして、しっとり、栗そのものを味わえる上品な甘みです。
 八百津町では杉原千畝を顕彰する「人道の丘公園」が1992年8月に建設されました。その中にある杉原千畝記念館には、ビザを発給する決断をしたカウナスの領事館執務室が再現されているそうです。もうひとつ、緑屋老舗には杉原千畝にちなんだ「人道の詩(うた)」というお菓子がありました。栗金飩を羊羹で巻き、竹皮でくるんでそのまま蒸したものです。ぜいたくなお味でした。
 今回、わたしは初めてお取り寄せということをしました。これまでのお菓子はすべて実際お店に出かけて購入していましたから、電話をして発送のお願いをするのはとても不本意なことでした。絶対八百津町に行って、お店に行き、人道の丘公園の記念館にも行って来たいと思います。

昨年9月、杉原千畝の関連資料がユネスコ記憶遺産の国内候補に決まりました。12月2日の毎日新聞にはNPO法人「杉原千畝命のビザ」副理事長である、お孫さんの杉原まどかさんのインタビュー記事が載っていました。2017年の登録が待たれます。
 拙稿第30回で取り上げた映画「海難1890」と今回の映画「杉原千畝——スギハラチウネ」は期せずして、いま目の前にいる困った人を当然のこととして助けた史実です。この冬は暖冬から一気に大寒波が襲っていますが、勇気ある人間の行いに心暖まり、栗金飩と静岡のお茶でほっこりしています。

 

参考文献 杉原幸子  『六千人の命のビザ・新版』大正出版 1993
緑屋老舗  お菓子のしおり
杉原まどか 「そこが聞きたい『命のビザ』記憶遺産候補」:毎日新聞 2015年12月2日
DVD 「命のビザ」 杉原幸子原作、フジテレビジョン制作 1992
参考サイト 緑屋老舗
NPO法人 杉原千畝命のビザ

(2016.1.23  高25回 堀川佐江子記)