京都暮らし あれこれ 堀川佐江子

 

第34回 石清水八幡宮奉納「太夫道中」と走井餅

4月10日、一度行きたいと思っていた石清水八幡宮へお参りに行って来ました。京都府八幡(やわた)市男山の山上にあり、京阪電鉄八幡市駅から男山ケーブルで上まで行くことができます。でも山上駅が神社の裏側にあるので、正面から入りたいと思い、一の鳥居から歩いて山頂を目指しました。
 石清水八幡宮で思い出すのは、高校の古典で習った徒然草です。第52段、仁和寺のある法師が、年取ってから宿願だった石清水八幡宮へひとり徒歩にて参拝したが、山麓にある寺社をお参りして、それが本宮と勘違いし、山上にある神社本体には参拝しないまま、帰って来てしまったという話です。
 一の鳥居をくぐるとすぐ、頓宮という静かなお宮がありました。幕末の鳥羽伏見の戦いで消失する前はかなり立派な社殿だったようで、仁和寺の法師が間違えても不思議はなかったくらいの規模だったそうです。現在のは大正4年に造営されました。「徒然草の結びは『先達はあらまほしき事なり』だったね」と話しているうちはよかったのですが、口がきけないくらいの階段につぐ階段、平坦な道なんてありません。本殿までは3つのルートがありましたが、中くらいのキツさの道に今でも石清水が湧き出ている石清水井があるので、その道を選びました。ひたすら森の中の階段を上がって、本宮に到着しました。汗びっしょりでした。山全体がうっそうとした森になっていますから、山上に立派な神社があるなんて麓からは全く見えません。
 神社の創建は平安時代初め、清和天皇の貞観2(860)年。都の裏鬼門(西南の方角)を守護する王城鎮護の神で、伊勢の神宮に次ぐ国家第二の宗廟とは、今回行くまで知りませんでした。鬼門(東北の方角)の比叡山と共に、都を守る重要な役目を担っており、天皇の行幸や上皇の御幸は実に240余度にも及ぶそうです。また、八幡大神の御神威をもって武運長久の神として、清和源氏をはじめ全国の武士が崇敬を寄せてきました。源義家はここ石清水八幡宮で元服したため、八幡太郎義家と名乗っています。

 今回、なぜ急に思い立って出かけたかというと、今年2月9日、本社10棟が国宝に指定された事を受け、30年途絶えていた太夫道中が復活して奉納されるという情報を得たからです。しかもその太夫とは島原の司太夫さんで、長女の葵太夫さんと共に参道を練り歩き、御本殿の前で、舞を奉納するのです。

 この司太夫さんというのは、古くからの文化である島原の太夫が忘れ去られないようにと講演活動もされています。それで、わたしは20年近くも前に子ども達が通った学校の文化講演会で、司太夫さんの太夫道中と、「かしの式」というお客様との顔見せの儀式を拝見したのです。「かしの式」とは太夫が盛装をして盃台の前に座り、盃を回すしぐさを見せている傍らで、仲居が太夫の名前を呼んで客に紹介するものです。
 今回、太夫道中は総門のすぐ前の階段の上で40分も待って拝見しましたので、よく見ることができました。しかしながら、本殿前の特設舞台に移動したときには、人がいっぱいで「かしの式」とそれぞれが1曲ずつ舞った「舞」は覗くようにしか見えませんでした。
 「太夫」と「花魁」はよく間違われるのですが、全く違うものです。江戸吉原の「花魁」は姉女郎を呼ぶ「おら、おいらの(姉さん)」がつまったものという説があり、遊女の最高位です。一方、「太夫」は京で公家・大名の酒席でのお相手をするため、高度の教養が必要で、歌舞音曲はじめ、和歌、俳諧、茶道、華道、香道、さらに囲碁、双六等小さい頃から仕込まれたようです。太夫のいる花街(かがい)は置屋と茶屋が別で、茶屋から呼ばれて、置屋からお客の待つ茶屋まで、童女の禿(かむろ)、引船(ひきふね=太夫の世話をする女性)、差し掛け傘の男性を従えて、三枚歯の黒塗り高下駄を素足で履き、内八文字(踏み出す足が内側を回る)を踏みながら練り歩くのが太夫道中でした。花魁道中は外八文字を踏みます。そして、締める帯はどちらも前結びで花魁がだらりと下げ、太夫は心の文字に結びます。
 また、太夫は通称「こったい」と呼ばれています。これは公家言葉で「こちの太夫」が語源で「こち」とは「内なる者、出しゃばらない、奥ゆかしさ」を示しています。

 さて、今回のお菓子は石清水八幡宮の一の鳥居前にある「走井餅」です。創業は明和元(1764)年、大津の地で湧水走井(はしりい)の名水を用いて、井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まります。形は平安時代の刀鍛冶・三條小鍛治宗近が走井の名水で名剣を鍛えたという故事に因み、刀の荒身を表しています。お店は歌川広重の東海道五十三次の大津宿にも描かれています。明治43(1910)年、六代井口市郎右衛門の四男・喜四郎によって、京都やわたの地に引き継がれました。昭和初期、本家は廃業したため、このやわた走井餅が直系唯一の走井餅となりました。柔らかいお餅の中はこしあん、上品な甘さです。

 お店から見える一の鳥居には「八幡宮」と書かれた扁額が掲げられており、よく見ると八の字が鳩になっています。

ローカルな話で恐縮ですが、わたしは浜松市八幡町に生まれ育ち、子どもの頃の一番の遊び場は歩いて3分の八幡様でした。ここの境内には社前に大楠があり、元亀3(1572)年に武田信玄との戦いで敗走した徳川家康がその洞穴に潜み、武田軍の捜索を逃れたことで有名です。その時、瑞雲が立ち上ったとの故事により「雲立(くもだち)の楠」と呼ばれています。この話は子どもの時から繰り返し聞かされていましたが、今回調べたところ、八幡太郎義家が永承6(1051)年に陸奥へ下向の折、ここ八幡宮に参籠し樹下に旗を立てたとの伝承もあるそうです。正直、ホンマかいなと思ってしまいました。あまりにも身近な八幡様だからです。
 ところで、浜松祭の時の八幡町のマークは鳩です。なぜ鳩なのか深く考えたことはなく、八幡様の神のお使いくらいの知識しかありませんでした。「応神天皇の神霊が金色の鳩に変じた」「宇佐八幡宮から石清水八幡宮に分霊する際に白鳩が道案内をした」といった伝説から、八幡宮では鳩が神様の使いとされたようです。
 ついでに申し上げますと、拙稿第12回「まつりと大柏餅」で取り上げた浜松祭で、写真の大凧に描かれた鳩のデザインが八幡町の印なのです。揚げているのは兄で、これは私の孫の初節句の凧揚げです。

 「太夫」の話に戻りますが、小学校の体育館で強烈な印象を持った太夫道中から10年以上経った2009年秋の紅葉の頃、兄がS銀行関係者の方々と共に京都旅行に来ましたので、わたしは夕食会にだけ参加しお相伴にあずかりました。その旅行を企画した「いーら旅行舎」(いーら、というのは浜松の方言で、いいでしょ、という意味です)の社長さんに二次会で連れて行ってもらったのが、開店して間もない「こったいの店 司」でした。カウンター席に座ると、島原の現役太夫さん、と紹介されてすぐ小学校での文化講演会を思い出し、そのお話をしました。もちろん、よく覚えていらっしゃいました。
 それから2日後、私が近所の郵便局に所用で出かけますと、少し変わった着物を着た方が入って来られ、ふと見ると、すっぴんの「こったいさん」でした。びっくりしましたが「こんにちは」と挨拶しましたら、彼女もビックリ顔。ご近所だったのです。後にも先にも郵便局で出会ったのはこの時限りです。石清水八幡宮で舞の奉納の後、すこし時間がありましたので、「こったいさん、こんにちは」とご挨拶しました。振り返って、にっこりしてくださいました。

参考文献 石清水八幡宮しおり
名物やわた走井餅の由来
参考サイト 京都・嶋原〜司太夫夢灯篭〜
もう一つの花街〜島原〜、京・花街の文化

浜松八幡宮


(2016.4.15  高25回 堀川佐江子記)