昭和18年、小学校1年生の11月15日は私の誕生日で数え年7歳の七五三のお祝いの日でした。
ぼたん色の「銘仙」の着物を着せられましたが、戦時中なので軍艦の柄が織り込まれていました。白、ブルー、黄色の軍艦本体に黒い煙突が2本立っている絵柄でそれが飛び飛びに織り込まれていました。
その日は小さな赤飯のおむすびを沢山(数は忘れました)持たされて氏神様へお詣りに行きました。後から近所の仲良しの子ども達がついて来て、帰ってから皆でそのおむすびを食べました。今になって思いますと、お友達に食べてもらって私の厄を分かち合っていただいた、古からの風習によるものでしょう。
それからは、戦局も激しさを増し、お米も入手困難な時世となりましたので、長い間お赤飯をいただくことができませんでした。
私は49歳で初孫を授かり、祖母となってからは華やかな七五三のお祝いに息子達から招かれることも多くありましたが、その孫も25歳を頭に4人となり、曾(ひ)孫を待つ身となりました。
母が癌に倒れたのは丁度私の年(74才*)で、臓器を五つ摘出する手術を受け7ヶ月の入院でした。毎日病院に通い、退院後は1日に6~7回の食事管理が必要なので「貴女の所で」と言う母の言葉で、実家の兄から母を預かることになりました。それから5年間、亡くなる前日まで自宅介護を致しました。頭はしっかりしていて心を病むこともなく小康を保っていましたので、23歳で母と別れて以来、お互いに一生分のお話がゆっくりで出来たことに感謝しました。
亡くなった(80歳)後の遺品の中から私の七歳のお祝いに着ていた長着の端切れで太い腰紐が作られているのを見つけました。母の気持ちが伝わるこの腰紐を私の枕元に置いておりましたので、七五三のお祝いなのにこのようなお話になってしまいました。お許し下さい。腰紐の糸をほどけば写真になると気づき掲載しました。七五三の晴着にこんな絵柄をつけた時代が少し前にあったのです。
*今日、私は75歳の誕生日で、いよいよ後期高齢者の仲間入りです。
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