11月15日は七五三です。
三歳の男女の子どもと五歳の男の子と七歳の女の子の健康と成長を祝う日です。
昔、三歳の子どもが頭髪を伸ばす髪置きという儀式があり、五歳の男児は袴着の祝い、七歳の女児は大人の帯をしめる儀式があったといわれています。
七五三の奇数は陽の数でめでたく、11月15日は28宿の「鬼宿日」で、この日は鬼は家にいて災厄を及ぼさないといわれ、現在の「大安吉日」の元祖です。
徳川時代、三代将軍家光の四男徳松(のちの五代将軍綱吉)の身体が虚弱だったので五歳の祝いを慶安3年(1650年)11月15日にとり行ったのが初めともいわれています。
又、皇室では、平安時代からこのお祝いの儀式は今もなお行われています。11月3日(2011年)に秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁(ひさひと)さまの五歳の祝「着袴(ちゃっこ)の儀」と「深曽木(ふかそぎ)の儀」が赤坂東邸で行われました。悠仁さまは天皇皇后両陛下から贈られた落滝津(おちたぎつ)の装束を身に着け、宮中三殿を参拝し、ご夫妻と御一緒に両陛下に御挨拶なされました。
このように七五三は子どもの成長の節目に当たるので、災厄を防ぎ健やかな成長を祈るハレの日なのです。

千歳飴は元禄の頃、江戸の浅草寺で売られていたものが全国で普及したといわれています。今回は千歳までと願う親心を込めて長寿のいわれのある伊勢海老を焙烙(ほうろく)焼きにしました。焙烙とは素焼きの平皿鍋で2枚合わせて上下に炭火を置き蒸し焼き料理に用いるものです。今は上皿が飾り皿になっていますので、調理も器に合わせて致します。

伊勢海老の焙烙焼き  栗、生椎茸、すだち

伊勢海老の焙烙焼き
材料(4人分)
  伊勢海老
・・・
2匹
 
・・・
4個
  生椎茸
・・・
4枚
すだち
・・・
2個
粗塩
・・・
1袋
松葉
 
 
 
① 伊勢海老はのしぐしを打ち、手足を縛ってから冷凍庫で眠らせる。
② 大鍋にたっぷりの湯をわかし塩を入れて5~6分ゆで、色よくなったら笊に上げる。
③ 胴をくるっとまわして頭からはずしてくしを抜き、縦半分に切って塩をふって天火で焼く。
④ 頭に胴をさし込み、元通りの姿にする。
⑤ 栗は鬼皮、渋皮をむいて固ゆでにし、塩をふって焼く。
⑥ 生椎茸は石突きを取り砂糖水に漬けた後、薄塩をして焼く。
⑦ すだちを半分に切る。
⑧ 焙烙の下皿に粗塩を敷き、天火に入れて塩が熱くなったら取り出して松葉を敷き、熱々の④⑤⑥を盛り、蓋をして、すだちを添えて持ち出す。
 

もう一品お祝いの料理、飛龍頭を作ってみました。

 

椀盛  清汁仕立、飛龍頭、新菊、松葉柚子

椀盛 飛龍頭
材料(6人分)
  豆腐
・・・
1丁、400g
生身
・・・
120g
海老
・・・
50g
・・・
1/2個
白味噌
・・・
小1/2強
みりん
・・・
小1/2
大和芋
・・・
20g
  きくらげ
・・・
2枚
  海老
・・・
3匹
  銀杏
・・・
6個
A
だし
・・・
2C
薄口醤油
・・・
小1
・・・
小1/2
みりん
・・・
小1
清酒
・・・
小1
 
  新菊
・・・
1ワ
  柚子
・・・
1個
B
だし汁
・・・
4C
・・・
小1
薄口醤油
・・・
小1
味の素
飛龍頭(材料)
飛龍頭(調理③)
飛龍頭(調理⑧)

豆腐を鍋に入れ水を張り一煮立ちさせ笊に布巾を敷いた上にあけ、泡立器でくずす。
 400gの豆腐を250gになるまで絞り裏ごす。
② 海老を洗って殻をはずし水けをよく取ってから、まな板の上でこそげてよく叩く。
③すり鉢に生身を入れてよくすり、大和芋、豆腐を入れてよくすって②と調味料を加え混ぜ、加減をみながら卵を加える。
④ きくらげは水に浸けて戻し石突を取って細い千切りにする。
⑤ 銀杏は茹でておく。
⑥ 海老は殻つきのまま霜振って、頭と殻をはずし半分に切る。
⑦ ③に④を加え6等分して真中に銀杏と海老を入れて丸める。
⑧ 熱した油で揚げる。
⑨ Aのだし汁で10分煮る。
⑩ 新菊は茹でて水に晒す。
⑪ 温めた椀に煮含めた飛龍頭を入れ新菊をあしらい松葉柚子をのせて熱い清汁を注ぐ。

〜小話〜
七歳晴着の端切れ
昭和18年、小学校1年生の11月15日は私の誕生日で数え年7歳の七五三のお祝いの日でした。
ぼたん色の「銘仙」の着物を着せられましたが、戦時中なので軍艦の柄が織り込まれていました。白、ブルー、黄色の軍艦本体に黒い煙突が2本立っている絵柄でそれが飛び飛びに織り込まれていました。
その日は小さな赤飯のおむすびを沢山(数は忘れました)持たされて氏神様へお詣りに行きました。後から近所の仲良しの子ども達がついて来て、帰ってから皆でそのおむすびを食べました。今になって思いますと、お友達に食べてもらって私の厄を分かち合っていただいた、古からの風習によるものでしょう。
それからは、戦局も激しさを増し、お米も入手困難な時世となりましたので、長い間お赤飯をいただくことができませんでした。

私は49歳で初孫を授かり、祖母となってからは華やかな七五三のお祝いに息子達から招かれることも多くありましたが、その孫も25歳を頭に4人となり、曾(ひ)孫を待つ身となりました。

母が癌に倒れたのは丁度私の年(74才)で、臓器を五つ摘出する手術を受け7ヶ月の入院でした。毎日病院に通い、退院後は1日に6~7回の食事管理が必要なので「貴女の所で」と言う母の言葉で、実家の兄から母を預かることになりました。それから5年間、亡くなる前日まで自宅介護を致しました。頭はしっかりしていて心を病むこともなく小康を保っていましたので、23歳で母と別れて以来、お互いに一生分のお話がゆっくりで出来たことに感謝しました。

亡くなった(80歳)後の遺品の中から私の七歳のお祝いに着ていた長着の端切れで太い腰紐が作られているのを見つけました。母の気持ちが伝わるこの腰紐を私の枕元に置いておりましたので、七五三のお祝いなのにこのようなお話になってしまいました。お許し下さい。腰紐の糸をほどけば写真になると気づき掲載しました。七五三の晴着にこんな絵柄をつけた時代が少し前にあったのです。

今日、私は75歳の誕生日で、いよいよ後期高齢者の仲間入りです。