実家ではどういう訳か、甘鯛が手に入ると「とろろ汁」を作りました。素焼きして、たっぷりの水で出汁を取り、自然薯をおろしてすり鉢に入れ、家族が交代ですり、卵を加えてすり混ぜ、徐々に調味した出汁を加えて更にすり混ぜ、最後に甘鯛の身をほぐし入れて出来上がりです。葱と海苔の薬味でいただきました。甘鯛に出合うと家族団欒が始まりました。
とろろの出汁については地域によってかなり違いがあります。山の方では椎茸や鮎の出汁を入れて作り、この地方では煮干しや鰹節の出汁を使って清汁仕立や味噌仕立にするようです。
実家では甘鯛の出汁でないととろろ汁を作りませんでした。この原稿を書きながら、どうして甘鯛なのかをようやく理解しました。父の家に脈々と受け継がれてきた食文化が自然に身に付いていたのでしょう。多分、昔の人は家康の好物を知っていたと思われるのです。父は夏になると、今日の沢庵は「かくや」にしなさい、と言っていました。夏のひね沢庵を薄く輪切りにして水に浸し、少し柔らかくなったところで重ねて細切りにして、胡麻をふったり、おろし生姜、味の素、ちょっと醤油をふったりしていただきました。千切りキャベツや胡瓜を加えるのもいいものです。
人口約81万人の政令指定都市浜松は、戦後の織物産業から転じて、オートバイ、自動車、楽器の生産地として更に音楽の街、芸術の街として、全国へ豊かなイメージを発信しています。又、歴史上では幾多の戦いを制して265年間の泰平の世を築き上げた徳川家康が29歳から45歳までの壮年期を過ごした浜松城(出世城)があることも発信しています。家康が生涯ただ一度の敗戦、三方ヶ原合戦の地であるにもかかわらず出世城といわれるゆえんは、歴代の城主が政の要職についたからといわれています。しかし、苦悩と忍耐を越え、英知に富んだ戦国の覇者、家康への畏敬の念からではと思うのです。信長、秀吉を制して天下を取るためには彼らより長生きするしかありませんでした。家康は健康を維持するために鷹狩り、水練はもとより、特に気を配ったのが食事でした。旬の物を食べ、祝い事(ハレの日)以外の常の日は簡素な食事を取っていました。例えば、なすび、とろろ汁、興津鯛、麦飯、かくやなどです。又、薬草の研究も続けていたようです。
昨年の夏、この家康の食事についてSBSメディアの記者が訪ねて来られました。
「浜松市制100周年で家康に注目が集まっているので、75歳まで長生きした家康式の健康術について取材に協力してください。麦飯、とろろとめざしで。」ということでした。そこで私は記者と一緒に、まず大名達のお持て成しの豪華絢爛のお料理を知ることから始めました。そして常の日の簡素な食事は何であったのかを調べました。この時参考になった資料の一部が前記の古書「家康の好物のお話」です。
早速、魚屋を訪ね、甘鯛の干物をさがしましたが、季節的にありません。甘鯛は秋に美味しくなる魚で、身は淡白で上品な味わいの魚です。柔らかいので一塩して一夜干しにしたり、西京漬けにしたり、この地方では煮付にします。京都では「グジ」と呼ばれる高級魚です。ただ舞阪漁港では梅雨の頃にも水揚げされますので、出入りの魚屋さんに尋ねてみました。
「家康のお膳を作りたいので甘鯛がありませんか」と聞くと
「興津鯛ですか」と。
私はびっくりして、「家康の甘鯛と言っただけで解るの」と、問うと、
「実は興津鯛ってどんな鯛かと思っていて、興津に行った時、地元の人に聞いたところ甘鯛のことだよ、と言われた」、そして、「今入荷していますから背開きにしておきましょうか」と。
こんな訳で、早速仕入れして薄塩をあて、一夜干しにして記者を待ちました。麦飯を炊いたり、とろろをすりおろしたり、めざしを焼いたり、家康の陣中食の浜納豆を胡瓜の種を取った所に詰めたりと。
一汁一菜と香物程度の献立ですが、栄養バランス満点のお膳が出来上がりました。写真を掲載します。興津鯛とかくや香物を盛ってあります。朱の丸盆の上には八丁味噌上澄仕立の「あつめ汁」の汁と5種の具がのせてあります。詳しい解説は「びぶれ」の2011年9月8日号に載せていただきました。